美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「共謀罪」法可決の後で

今日は以下の本を読む。比較的薄めの本だが、内容が濃いので、時間がかかった。

ポピュリズムとは何か

ポピュリズムとは何か

「世界に幽霊が徘徊している。ポピュリズムという幽霊が」という昨今なわけだが、実はこの『共産党宣言』をもじった言葉は、1969年段階でギタ・イオネスコとアーネスト・ゲルナーが論文集の冒頭に書いた言葉だそうで、当然日本もこの「幽霊」が徘徊、というか跋扈している状態。そこで、この本を手に取ったわけだが、主にヨーロッパとアメリカ大陸の事例からポピュリズム一般について解説しているこの本、今の日本にも当てはまりそうなことが出てくる出てくる、というのが第一印象。
この著者の立場は明確で、ポピュリズムは確かに「民主主義」から生じたものだが、自分たちだけが「真正な人民を代表する」という排他的な主張、要するに自分たちに対立するものは「真正ではない人民(要するに「非国民」)」とするような性質は、多元主義を柱とする民主主義を毀損する、という立場から分析とその特徴を叙述している。最後の結論部分にそのテーゼがまとめられているので、詳しくはそれに当たられたいが、僕が本書を読んでいて思わず線を引いた部分を中心に、少し読書メモを書いておきたい。
まず著者は、ポピュリズムの主要な支持者として特定の社会経済集団に焦点を当てることの非を述べる(日本においても、自民党支持者のみならずネトウヨも、特定の層に限定されるものではない)。しかも、よく見る光景だが、「経済的に成功した市民は、しばしば本質的に社会ダーウィニズム的な態度を身に付け、実際に「わたしはそれを成し遂げた。なぜ彼らにはできないのか?」と問いながら、右翼政党への指示を正当化する(p.21)」ことも多い。そして「リベラルなエリート」がポピュリストを支持するような市民に対して「政治的なセラピー」を施そうとする態度こそが、ますます反発を招くという悪循環もある(pp.22-3)。
また、一つ重要なことはポピュリズムと「陰謀論」の相性の良さ、というか、その結びつきの「必然性」である。例えば、もしポピュリスト政治家が選挙で失敗したら、それは「サイレント・マジョリティ」がまだ思い切って声を挙げていないから(要するに当選したものは「真正な人民」を代表していないとレッテルを貼られる)だし、政権についた彼・彼女の政策がうまくいかないのならば、それはそれを阻む「既得権エリートや既存の制度のせい」という具合に、常に原因を外在化させる(pp.36-42)。それの延長で、勝者となった後も、ポピュリストは「常にエリートに邪魔される存在」と自らを規定して、犠牲者のように振る舞い続ける(p.55)。
上記のような振る舞いは、この十数年、日本でも「見慣れた」光景であろう。特に大阪近辺に住んでいる者としては深いため息と共に線を引き、付箋を貼らざるを得なかった。

他にも思わず「これは・・・」と思ったものをいくつか引用すると、

人民に反する活動に従事していると疑われたものは、厳しく扱われるようになるだろう(これが「差別的法治主義」であり「わが友には全てを、わが敵には法を」[1930〜45年および51〜54年にブラジル大統領を務めたジェトゥリオ・バルガスの言葉とされる]という考え方である(p.60)。

とか、

ポピュリスト政権のもとでは、(中略)腐敗としか言えないことが暴露されても、期待されたほどポピュリスト指導者の評判が落ちないといった奇妙な現象も生じる。(中略)ポピュリストを支持する人びとの認識では、腐敗や依怙贔屓も、非道徳的で異質な「彼ら」のためでなく、道徳的で勤勉な「われわれ」のために追求されたものと見える限り、さしたる問題ではないのだ(p.61)。

とか、

彼ら(ポピュリスト―引用者註)が選挙で勝利したという事実だけでは、彼らの企てに民主的正統性は付与されない(とくに彼らは、政権を握るための選挙キャンペーンで、広範な国政上の(constitutional)転換について言及することはほとんどないからである)(pp.71-2)。

とか、著者のミュラーさんのポピュリズムの性格の「一般化」の力量に恐れ入った次第。最後に彼は「いかにして、ポピュリストに投票する者たちを、不満・怒り・憤懣に衝き動かされた男女の病理学的事例としてではなく、自由かつ平等な市民として理解し、彼らの懸念に取り組むことができるのか」と述べているが(p.126)、これがまさに我々の眼前に突きつけられた問題であろう。