美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

The Act of Killing

本日、妻と京都シネマにて「アクト・オブ・キリング」を見に行きました。予告編は以前見ていたので、それなりに覚悟はしていたのですが、相当後味の悪い映画でした。はっきり言って、「悪趣味」と言っても良いかもしれませんが、ノンフィクションなだけに、より始末に負えない、と言うのが率直な感想です。
この映画をざっと紹介すると、1965年のスハルトによるクーデターの際、インドネシアでは共産党とそのシンパと思われた人々が民兵(はっきり言えばやくざ、愚連隊の類い)に大虐殺されました。しかしその「犯人」達は罪を許され、現在も大手を振ってインドネシア社会で隠然たる勢力を保ち、普通の生活をしています。この映画は、まずかつて虐殺を犯した人々を追い、彼らが「自分たちの過去の活躍ぶり」を映画にする、というのを追いかけたドキュメントです。ですから、これは単なるドキュメントではなく、彼らの映画撮影現場を写すことで、彼らの内面の「世界観」をもそのまま(醜悪なまま、といってよいでしょう)記録する、という大変に意地の悪い構造になっています。僕が「悪趣味」と言ったのは、そのような監督の一種の「悪意(これは告発の裏面です)」が凄いと思ったからです。監督は、まず加害者達に過去についてインタビューしたところ、彼らが殆ど罪悪感を持たず、「共産主義者達をこうやって殺してやった」と過去の「手柄」を自慢げに話すので、「では皆さんで、その再現をやってみませんか」と持ちかけ、彼らはその提案に乗るわけです。この映画のタイトルは、そこから来ています。過去の「行動act」を「演技act」する、そこにこの映画の凄まじさがあります。
これ以上はネタバレになってしまうので、言及は避けますが、近年まれに見る傑作ドキュメントであるのは間違いありません。インドネシアの陰惨な過去、そして右翼青年団が隠然たる力を保持し、やくざ同様のみかじめ料を取るような現在の暗部、そして彼らの「俺たちは勝者だ、勝者が都合の良い過去を語って何が悪い」と開き直るような内面、という三つのうんざりするような側面を描いた傑作です。