美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

加害者家族と「宗教的エリート主義」について

今日届いたこの本を一気読みしてしまったので、その感想を以下に簡単に書く。

 

これは、2018年に死刑になった、元オウム真理教信者の井上嘉浩氏の父親の手記を元に、その周りの支援者たち(真宗大谷派の知り合いも数名いてびっくりした)の動きをまとめたドキュメントである。著者は元北陸朝日放送の記者。実は、数日前、Twitterで1992年の時の東大駒場祭のビラが投稿され、そこにオウムのビラもあって「これがきっかけで、俺はアジトで井上氏に会ったんだよなあ」と思い出を語ると少しだけ反響があった。

井上氏は逮捕後、脱会し、ずっと悔恨の気持ちを持ったまま死刑に処された。それを見守るしかなかった両親の苦悩は想像に余りある。

しかし、この本は単に井上氏とその家族に寄り添うだけではない。藤田庄市さん(知り合いである)の言葉を引いて、やはり井上嘉浩氏には宗教的エリート主義というか「独善的な修行者意識」がなかなか抜けなかったのではないか、という手厳しい指摘もされている(pp.170-1)。「独善的」とは、修行を続けることによって人間性も宗教的にも世間より高いところにいる意識のことである。藤田さんの本は以下のものを参照。

 

さて、実は僕はTwitterでも言ったように、駒場祭の麻原の講演会をきっかけに、宗教学科の同期3名(当時学部3年生)と一緒に駒場東大前のあるマンションにあった「アジト」に招待され(というか、わざと引っかかったのだ。フィールドワークの練習などとうそぶきながら)、その時に我々の相手(というかオルグ)をしたのが井上氏だったのだ。その時もらったオウムの本はまだ研究室に何冊かある。

その時言われたことで印象に残っているのは「君たちがここに来た、というのも因縁なんだよ」「そもそもここに来たこと自体、前世で修行した証なんだ」とか、そんなことを言われた。要するに「君たちは選ばれし人間なんだ」と、こっちの自尊心をくすぐるような口説き文句だったわけだ。

僕はそれをある意味「へえ、そういう風に口説いてくるのか」と冷徹に突き放し、それ以上深入りはしなかったのだが(何度かある女性信者からは手紙や電話をもらったがスルー)、僕は元々「疑り深い」性格だったのはともかくとして、こういう言葉に引っかからなかったのには、一つ理由が思い浮かぶ。

僕の高校時代に、日渡早紀先生という少女漫画家の『ぼくの地球を守って』という作品が大ヒットした。この作品は、要するに「宇宙人」の前世を持つものが現代日本に転生してきて、次第にその前世に目覚めていく、というのがストーリーの主軸になっているが、この作品の影響で、まさに今で言う「厨二病」真っ盛りの僕の同世代のティーンエイジャーたちが「私はアトランティスで○○という名前の騎士だった」というような「来歴」を語り出し、そのような「同士」を求める投書がオカルト雑誌に殺到する騒ぎとなった。作者の日渡先生が「この作品はフィクションです!」という声明を出さざるを得なくなったほどである。僕自身もこの作品は愛読していたが、揃いも揃ってみんな「かっこいい前世」を持っていることに反発を覚えて、「俺は前世では、美濃国の百姓で川瀬彦左衛門だった(これは実際の僕のご先祖様だが)」みたいなことを言う奴がいたら信じようと思っていたくらいには醒めていた。要するに、高校時代にその騒動を目の当たりにして「前世」だとか、そういうものにある意味「免疫」がついていた、ということは言えるかと思う。それが幸いしたのかも知れないが、一歩間違えると、という気持ちは今も持っている(そういうものに惹かれることを自覚したからこそ、宗教学なんていう分野に足を踏み入れたのだが)。

そういうことをも思い出させる本だったが、何よりも「犯罪加害者の家族」というもう一つ重い問題をも突きつける本だった。