美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

思想史的にオウムを読み解くと・・・

今日は年度最後の某会議があり、その後研究室で、最近出た後輩大田君の本を一気読み。

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

元々、グノーシス主義の研究者の大田君がどんな形で読み解くのかな、と興味を持って読んだのだが、内容としては副題にある通り、「宗教」「死」を遠ざけた近代が(必然的に)生み出した「ロマン主義(そういえば大田君は前著『グノーシス主義の思想―“父”というフィクション』で、ロマン主義的なグノーシス理解を批判していたな)」「全体主義」「原理主義(大田君は原理主義といっても、ほとんど「終末論」に重ねて論じているようにも感じたが)」という三つの潮流(鬼子)が混じり合って(特殊日本的な状況も加味されて)、オウムを産んでしまった、という内容。ということで、今までオウムに対して行われてきた、状況判断的な社会学的・心理学的考察は意識的にオミットされ(僕は以前、私信で「なんでそういうのをオミットするの?」といちゃもんを付けたのだが、大田君にとってみれば、まさにそういうところから距離を置くスタンスを取ろうとしていたんだから、織り込み済み且つ仮想敵的な質問だったことだろう)、近代精神史からどのようにオウムが生じたのか、ということを論じようとしている書と言えようか。これは大田君も参照軸として用いている「ナチズムの生成過程」に関する学的蓄積を思い起こせば、大田君の主張の一端は理解しやすくなるだろう。「野蛮」への回帰ではなく、近代(的な人間中心主義)こそがナチズムを生んだのだ、というのはフランクフルト学派以来の思想的課題であることは周知の通り(そしてナチズムが、実はオカルトまみれだったことも暴かれちゃってもいるわけだが)。オウムもまさに近代の鬼子として生まれたわけだ。個人的な思い出話を語ると、「ナチズムはヒューマニズムである」と言って、何も知らない我々を瞠目させた哲学教師が、若き日の高橋哲哉先生だったなあ(般教の「哲学概論」の講義)。
感想を一言で言うと、「宗教学(説史)概論」「近代宗教史概論」として、上記の三つの「主義」を整理する手腕は見事なもの(逆に言えば、非常に「玄人向け」。文章は読みやすいけど)と感じたが、冒頭に掲げられた「何故オウムだったのか」という所にはなかなか辿り着くのが難しい、という隔靴掻痒感があったのも事実(無い物ねだりは承知の上。大体、書評なんて無い物ねだりが大半)。つまり、最後のあたりで大田君も多少述べてはいるが、オウム以外に当てはまる普遍的なことを論証してしまったせいで、却って「何故オウムだったのか」というユニークネス(僕などは、どうしても俗っぽい人間なのでオウムがこだわったヨーガなどの身体性をそのユニークネスの根幹に置きたくなるのだけど)の論証が後景に退いてしまった感じがしたのだ。
ただ、オウム真理教の突飛な教説が突然現れたものではなく、それなりの歴史的文脈から出てきて、それ故に広範な支持を得られたのだ、という記述は説得的。でもこれは、「ナチスがどうして受け入れられたのか」という問題と同型で、どうしても論点先取りになってしまいがち(歴史学的後知恵は往々にしてこういう事態になるから、この本の瑕疵ではないけど)。
もう一つ個人的な思い出話を書くと、駒場裏のアジトで、井上嘉浩氏(当時は「アーナンダ」と名乗っていて、本名を知ったのは逮捕後)からオウム本(研究室にあるのは、ほとんどそのときもらったもの)をもらってからもう18年経つのか・・・(宗教学科同期のK島とM嶋の3人で遊びに行ったんだよね。今思えば冷や冷やものだが)。そして、手元にある『ヴァジラヤーナ教学システム教本(いわゆる「ポア」の思想をガンガン言っている麻原の説教集)』は、オウムにはまっちゃった研究者のSさん経由で入手したんだよな・・・。

追記:電車の中でつらつら思っていたんだけど、オウムのヨーガによる意識変革とか、そういう肉体への眼差しとかこだわりというのも、広い文脈では、「人間性の回復」「自然への回帰」というようなロマン主義的文脈に位置づけられるかもしれませんね。ナチスドイツにしたって、いわゆるドイツ民族高揚のための民俗学的な思潮とか、ワンダーフォーゲル運動とか、有機農業とかあったりしたし。藤原辰史さんの本も大分前に購入しているけど、積ん読だわ。