美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

ありがとう、昔の自分

今日は院ゼミ・学部ゼミの2連チャンの日。
院ゼミでは、中国のイエズス会キリスト教がどのように受容され、どのように拒否されたか、という本を読んでいるのだが、学生と喋っているうちに、急に思い出したのは学部1年生の時に受けていた「科学史」の授業。村上陽一郎先生の講義だった。朝一限だったが、面白く、ほとんど出席したと思う(その代わり、その次の2時間目の法学は爆睡して、良を喰らったが)。

西欧近代科学―その自然観の歴史と構造

西欧近代科学―その自然観の歴史と構造

↑この旧版が教科書だった。イエズス会の修道士達が篤信者であると同時に優れた自然科学者であったことは有名だが、村上先生がおっしゃっていた「中世ヨーロッパでは、人間は聖書と自然という二つの書物を与えられ、それを読み解くのが使命だという観念があった」というのを急に思い出して、ひとしきりそういうことを蘊蓄を交えながら(ニュートンケプラーがどれくらいオカルトにはまっていたか、とか)解説する。
結構前の話だけど、憶えているものだなあ。ありがとう、昔真面目だった自分。