美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

会議にて

今日は朝一から会議。信号に捕まり、少し遅刻気味な上に、いつもやっている部屋ではなかったので(急に変更しないでくれ〜)、しっかり数分遅刻。
今日は学内の予算配分とか、文部科学省に出す某書類とかの検討だったのだが、文科省に出す書類の審議がけっこう時間がかかった(かかって当然の代物なのだが)。その書類は「文部科学省は、このような方針の大学運営・教育をすることを各大学に求めています。ということで、あなたのところはどこまでその方針についてくる気がありますか(超意訳)」という質問に答える、という性格のもの。要するに文科省の方針に従うか従わないかの踏み絵というか、試金石のようなものなので「ここら辺までは頑張れるかな・・・」と自信なさげに答えるしかないもの(大体、やっている学問や大学・学部の規模によって、どう頑張ってもできない項目もあるのだ)。「法人化して、各大学は独自性を出して自由に」というのが大嘘だということがよーく判るよね。却って大学は「鯛焼きの型」のようであるべき、という官僚的発想が透けて見えるので、朝から気分悪い。会議中に思い出したのだが、内田樹先生の言葉をもう一度引用しておきたい

彼らは大学に向かって「まっとうな教育研究をすることよりも、『まっとうな教育研究をしていることを証明する仕事』を優先させよ」と言っているのに等しい。
子どもがぴいぴい泣いているのを放っておいて、「子どもをちゃんと育てていることを証明する書類」を書いている親や、殺人事件が起きたときに、デスクにかじりついて「凶悪犯をきちんと逮捕していることを証明する仕事」を書いている警察官が不条理な存在であるということは誰にでもわかる。
だが、私たちは現にそのような「カフカ的不条理」のうちに投じられているのである。

さて、先日の新聞に、国立大学の財政的「惨状(と表現して良いだろう。特に地方国立大学)」と広がる格差が報告されていたが(例えばこの記事)、僕はやはり教育へのお金のかけ方は、「一点集中」ではなく、「広く薄く」が良いと思っている(反時代的なことは承知している)。このままだと、「鯛焼きの型」にもなれない(教育レベルを財政面で維持することができない)国立大学が出てくるだろう(勿論公立大学、私立大学も他人事ではないが、交付金が毎年削られていくことが決まっている国立大学をとりあえず念頭に置いている)。財務省が出す会計報告において、大学「業界」全体では黒字、でも一部の大学の隆盛とその他の死屍累々、という構図が日本の将来に良いかどうかは贅言を要すまい。