美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

プライドと後ろめたさの無限ループ

昨晩、本屋さんで見つけたSYNODOSの最新刊を購入。

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

早速、前々からファンである高田里恵子先生の部分をまず読む。ある意味言っていることはいつも一緒なのだが、いつも笑わされる。というか、身につまされすぎ。
「敗者」のルサンチマンがひっくり返って「優越感(プライド)」となるも、世間からの視線に過敏になり、「俺はこんなことで良いのだろうか」と後ろめたさを感じてしまう・・・というのは、明治から今まで連綿と文学部系のトップの人間が感じてきたことだよな。僕もその一人。思い出話をすると、人間的に素直なのは、法学部・経済学部の方が多かったのは憶えてる(笑)。
昔から文学部系のエリートは「俺って役立たず」→「でも、役立たずゆえ、偉い(社会批判もするし)」→「でもやっぱり役立たず」→「でも、自分のありかたを自省できるだけ、いわゆる官僚みたいなエリートとは違うよな」→「とは言え、無力なのは変わらないし」という無限ループですわな。結局「文弱」「柔弱」な自分は肯定するんだよね。マッチョにはなかなかなれない。

話は変わるが、先日院ゼミで読んだこの本も「弱いゆえに尊いのだ」「弱さを貫くという強さ」というのがテーマだったと思う。

ゼミでの議論では当為、もしくは理念として柳田・保田・折口らの思想は当時の「益荒男ぶり」に「抵抗」しうるかも、というのはまだ分かるが、実際どれくらい有効だったの、という素朴な疑問がどうしても浮かんでしまったわけだが(僕など、ギリギリのところで抵抗した朝鮮人知識人とかの言説を追ってきた人間なので、石川さんの意図はよく判るつもりなのだが・・・)。思い出したのが、太宰治の「如是我聞」。志賀直哉への罵倒で有名だが、その罵倒のトーンも、実は「弱さを認めよ!」ということだったりする。

この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。