美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「主戦場」鑑賞

今日は、京都シネマにて、話題の映画、「主戦場」を鑑賞。早めに会場に行ったが、上演2時間前で既に20番台だったので驚いた。


ミキ・デザキ「『主戦場』ってどんな映画」:主戦場

ストーリーは、ざっくり言うと、「従軍慰安婦」問題に関して、「両陣営」の言い分を聞く、というスタイルだが、監督は当然右派(歴史修正主義派)には批判的。であるから、僕にとってはある意味「予想通り」の内容ではあった。様々なメディアで既に内容について言及されているが、この映画の肝は間違いなく、無防備なほどに自分の主張を垂れ流しにしている歴史修正主義派の面々の「顔」である。はっきり言えば、「醜い」としか言いようのない主張(レイシズムとセクシズムの悪魔合体)もそのまま彼等は「自分の主張は受け入れられるに違いない」という不思議な信念の元、開陳しているのだ。当然、会場内ではそういう場面になると失笑が起きるのだが(こんな映画を見に来るくらいの人々なのだから、こういう反応は当然)、悔しいことに、彼等の主張は、数々のバックラッシュという形でもって、現実に影響力をこの数年延ばし続けているのである。そういう意味で、いかに右派の連中が愚かな主張をしていて、それを会場で笑ったとしても、隔靴掻痒感が拭えない、というのも正直な気持ちである。

以前も、例えば小林よしのりのような人に対抗するためには「もっと声を大きく」とか「分かりやすく人々に」というスローガンが言われたときもあった(僕自身も人からそう言われたことがある。余計なお世話だったが)。しかし、歴史修正主義派の面々の主張が波のように襲ってきても、その波をどっしり構えて打ち砕くような硬い巌のような歴史的積み重ねをしてきた面々も、この映画ではしっかりと捉えている。具体的には、歴史学者の吉見義明先生、林博史先生、政治学者の中野晃一先生、そして日韓のアクティヴィストの人々。このブログや、僕がやっているツイッターなども、そういう言説の「主戦場」の一つだが、やはり、もっと違う「主戦場」はあるはずだ、との思いを新たにした、というのが、僕のこの映画に対する感想である。