美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

院ゼミ

今日の院ゼミは以下の本の水林彪先生の部分だけをとりあえず輪読。

比較歴史社会学へのいざない―マックス・ヴェーバーを知の交流点として

比較歴史社会学へのいざない―マックス・ヴェーバーを知の交流点として

正直言って、折原先生と水林先生の、ウェーバーのすごく細かい部分についてのやりとりは消化しきれず、院生諸君に偉そうに解説することも出来なかったが、自分の研究室にある関連書をだーっと並べて、虚勢を張ることにする。
支配の社会学 1 (経済と社会)

支配の社会学 1 (経済と社会)

支配の社会学 2 (経済と社会)

支配の社会学 2 (経済と社会)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

封建制の再編と日本的社会の確立 (日本通史)

封建制の再編と日本的社会の確立 (日本通史)

幸い、というか今日のレポーターは中世史専攻のY本君だったので(それもあって、今日は同じく中世史専攻のT地君も参加)、中世における天皇についてはどうなんだろう、というような形で議論(雑談)は進行。Y本君が持ってきたのは、大山喬平先生の中世日本と中世インドを比較しているこの本だった。
ゆるやかなカースト社会・中世日本

ゆるやかなカースト社会・中世日本

ええ、そんな簡単に言えるのかなあ、とタイトルだけで判断してしまいそうになるが、身分制のタイトさとか、周辺的身分(インドだといわゆるアウトカースト、日本だと被差別民)のおかれた立場など、共通するものは確かにありそうだし、ウェーバーの「比較歴史社会学」(今日の課題の本はこれの構築を目指すもの)に通じるものはありそうだよな。とか言いつつ、未だに「歴史社会学って何?」という思いも持っているのだが。少なくとも僕は上手に説明できない。通時的、通空間的なモデル構築を目指しているんだろうなぁ、という感触くらいしか実のところ、僕には判らないんだよね(ウォーラーステインからしてそうだけど)。まあ、細かい突っ込み(この時代のこの事例は当てはまらない)はいくらでもできるわけだが、元々そういう批判を織り込み済みで、そのモデルからのズレや逸脱に着目してその時代や地域の個性を推し量るのだ、というところかな(以前読んだ山下範久君の本の時もそう思ったんだけど)。
ダラダラ喋って、ゼミは一時間以上延長することに、そのまま北山駅前のカプリチョーザで夕飯。