美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

無意識に・・・

「つい」とか「無意識に」って言葉はよく使うわけだが、僕はいわゆるフロイト先生(から始まる精神分析)の学説を読んで「なるほど〜」と膝を打ちまくってから、そのあたりのことはあまり詳しく調べたり考えたりしていなかったのだけど、今は認知科学の方で、こういう風に考えているというのを教えてくれたのがこの本。

サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)

サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)

実は、大昔、まだ下條先生が駒場助教授だったころに、タイトルが面白そうなのでゼミに参加しようとして、あまりにも認知・実験系なのでビビって最初の顔合わせで遁走したこともあったのだ(その翌年、先生はカリフォルニアに行っちゃった)。で、お名前はずっと気にかけていて、この新書も出たときに買っておいたのだ。
ざっと読むと、いわゆる精神分析的(文学的、といっても良いか)な無意識論を、認知科学的に解明しつつある現状を教えてくれる本と言えばいいか(こういう読み方しちゃうところが、精神分析にシンパシーを持ち続けている僕という人間の偏り、というのは薄々感じているのだが)。でも、こういう認知・実験系って、どうしても「人間も所詮は生物のひとつ」という思想が背景にあるので、好きじゃなかったんだけど、

もともと、近代の人間観では、理性、悟性が優先され(って難しい言い方ですが、要は合理的、論理的なのが人間の本性だということです)、情動、感情はノイズとして脇に避けられてきました。これは近代の諸学がおしなべてそうで、哲学、論理学、法学、経済学ばかりではなく、社会学や心理学、ひいては神経科学までが、その尾を引きずっていたのです。たとえば経済学の古典的な「合理的判断者」としての人間像などがそれです。
それはここへ来て、ある種の反省がはじまったわけです。心理学や認知神経科学も例外ではなく、その影響を受けて情動系の研究が深まると同時に、その成果がこうした反省を加速する相互作用が生じました。本当は情動的なもの、感性的なもの、非論理的なものも、むしろこうした人間性の本質にとって重要なのではないか。論理的なもの、合理的なものも、むしろこうした情動的なものが前提となり、それによってドライヴ(駆動)されているのではないか。
そういう認識では、思想の世界もサイエンスの世界もまた実社会の動きも、リンクしていると思うわけです(p.225)

という部分を読むと、なるほど、下條先生のやっているようなことって「冷たい」と感じていたのは、まさしく僕の偏見だったんだ、と思い知らされた。
てなわけで、政治に関する動きを解説してくれている「第4章 情動の政治」がお勧め。