美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「講義ノート」を読む

今日はこの本をすごい流し読みでだが読了。時々参加させてもらっている、同僚のK林ゼミでの課題図書なので。

天皇制史論―本質・起源・展開

天皇制史論―本質・起源・展開

講義ノート」と書いたが、実際この本は水林先生の講義ノートが元になったもので、とにかく先生が調べまくった細かいことも含めて、「詰め込まれ方」がすごくて(その詰め込み方が、まさに講義ノートっぽいのだ)、一体何が本筋なのか時々見失う始末。僕の知識の無さもあるけど、もうちょっと整理できなかったのかなあと無い物ねだりをしてしまう(あと、ウェーバーの支配の理論って、金科玉条にすべきものか、という素朴な疑問も)。ウェーバー理論を下敷きにしているので、ウェーバーが使った用語がそのままドイツ語で書かれまくっており、眼がチカチカする。あと、天皇制と西洋中世の王権との比較がなされているが、そういう比較史的な視点からだと、カリフとスルタンの関係とかはよく天皇と幕府に比定されるが、そのあたりのことを先生に聞きたい気もする(明日のゼミでそういう発言するかも知れないけど)。
M1のとき、先生の『封建制の再編と日本的社会の確立 (日本通史)』という江戸時代通史を読んだときも「独りでこんなのを書くなんて」と呆れたが(黒住眞先生の近世思想史のゼミで読まされた)、ものすごい筆力であることは変わりなし。
でも、一番気になったのは、学者の名前を出すとき、ほとんどが「〜氏」なのに、石母田正丸山眞男だけが呼び捨てだったこと。最初は「死んだ人だからかな」と思っていたら「宮崎市定氏」と書いていたりするし、どうでも良いことだけど、気になってしょうがない(笑)。まあ、学者は、呼び捨ての方が敬意を表している、という場合もあるけどね。
僕として一番面白かったのが、第6章第5節の「天皇=宗教的権威説批判」という部分(pp.280-286)。僕が属する宗教学なんかはある意味典型的だが、天皇を「宗教的権威」と見なすという習慣があるわけだが、「応仁の乱以降なんかほとんどの祭祀が途絶しているっていうのに、それは無理あるんじゃないの(大意)」というのが水林先生の意見。これはいわゆる「卵と鶏」の関係で「宗教的権威だから、官職などを与えていたのだ」というのではなく「官職の(権力秩序の法的な)正当性を担保するために宗教性が召喚されたのではないか」というのが水林先生の見立て、といえるかと思う。このあたりはそうかもなあ、と思ってしまった。