美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

世俗化論とか「市民宗教」論とか

現在、学内の報告書に向けての原稿を執筆中。今回は思うところがあって、いわゆる宗教社会学の流れを自分なりに勉強し直そうと思い、世俗化論や、その行き詰まりから出てきた(と断言するとまずいかも知れないけど)「市民宗教」論や「公共宗教」論に関する本を斜め読みしている。
今日読み終えたのは、大学院の先輩の大久保さんの単著。三年前にいただいておきながら今まで積ん読でした。申し訳ありません。

プロテスタンティズムとメキシコ革命―市民宗教からインディヘニスモへ

プロテスタンティズムとメキシコ革命―市民宗教からインディヘニスモへ

これは大久保さんの博士論文を加筆修正したもの。19世紀から20世紀初頭のメキシコにおけるマイノリティだったプロテスタントの動きに注目した研究書(固有名詞はちんぷんかんぷんだが、文章は読みやすい。パキパキ要点を喋る大久保さんご自身を彷彿とさせる文章だ)。
メキシコ革命時にはプロテスタントは教育などの分野で結構活躍し、隣国のアメリカの「市民宗教」をある意味模倣して近代化と国民国家形成に邁進しようとした、ということが述べられている(大まかすぎるまとめで済みません)。大久保さんがここで言う「市民宗教」とは、ロバート・ベラーが指摘した例の「アメリカの市民宗教」なわけだが、僕は読んでいて、「アメリカにおける良好な政教関係」とか「キリスト教的な文化的意匠が気負いなく政治にも溶け込んでおり、倫理的な国民形成に役立っていること」という「市民宗教」の内実って、果たしてどこまで本当だったんだろうなんて事が気になった。もちろん、政治に容喙してくるカトリック勢力を疎ましく思っていたメキシコの指導層には「隣の芝は・・・」ではないが、眩しく見えたんだろうな、ということは想像できるけど。
あと、「市民宗教」というのは、すごくとらえどころのない概念で、「模倣」できるものなのだろうか、という素朴な疑問も少し感じた。僕のイメージだと、聖書に手を当てながら宣誓する大統領の映像を見て、事後的に「ああ、こういう伝統があるんだ」と感じるようなものが「市民宗教」ではないか、と思っていたもので。要するに僕は「市民宗教」というのは意図的に作り出せるものではなく、「雰囲気」に近いものじゃないのかな、と思っていたって事。
それで僕なんかは、日本の国家神道はやはり「市民宗教」を人為的に作ろうとして失敗してしまった例の一つに思っているんだけどね。
このあたりはもうちょっと考えよう。