美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

authenticityの呪縛

大野左紀子さん(id:ohnosakiko)の新刊を読了。こなれた文章で読みやすい。

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

で、読んだ後やはり思ってしまったのは「authenticityの呪縛」ということ。authenticityとは「真のアートとは何か」という時の「真の」という言葉とか、「本当の私」という時の「本当」という言葉の謂い。アーティストはまさにそれで勝負を懸ける人種(のはず)だが、これはアーティスト(自称も含む)だけでなく、多かれ少なかれどんな人にも当てはまることだよなあ、と嘆息したのだった。僕だって、「自分の才能を生かすのは学問の世界だ」という自意識無くして、大学院に進学したわけがない。だから「自分らしさ」にこだわるものを見ると、気恥ずかしさというか、自己嫌悪に似た感情に駆られてしまうのだ(だから、速水健朗氏の『自分探しが止まらない (SB新書)』の身も蓋も無さを面白く読めたのだ。彼の方がそういう傾向へのコミットメントの度合いは強いだろうけど)。
しかも、当たり前の話だが、「真の」「本当の」というのは、自分一人で決められることではなく、承認されねば何の価値もない、というところがミソ。上野千鶴子先生が昔『「私」探しゲーム―欲望私民社会論 (ちくま学芸文庫)』で指摘していた「連他性(他人と繋がっていること。要するに「判る人には判る」という意識ですな)」というのが、まさに「自己表現」の場にはどうしようもなく付きまとう。というわけで、アーティストを名乗るのは簡単だが、アーティストで居続ける為には大変な労力が要るのだ。

この本の前半部では、「アーティスト」「アート」という言葉の意味が拡散して、まさに「誰でもピカソ」状態になっていることに対し、大野さんはある意味苛立ちを表明している(なお、一番最後での「自然体」という「虚構」を切る筆も冴えまくり)。
趣味の絵画で何度も受賞していたり、「アーティスト」を名乗る芸能人に対する辛辣な評価などは思わず含み笑いをしながら読んだのだが、これは「真のアートとはそんな(甘っちょろい)ものではない」という意識が大野さんにあるということの裏返しではないのか、ということを思って読んでいた。例えば、僕も片岡鶴太郎の絵や言葉には感心などしないけど、あそこまで目標(アーティストと呼ばれたい、単なる芸人では終わらせない、という意志)を定めて到達できたのなら、彼の努力及びマーケティング能力は褒めねばならないだろう。芸能人であるという「下駄」はあったにしても。
後半の、彼女が「アーティストをやめた過程」および「美術系予備校教師時代の話」は素直に面白く読めた(小泉真理の『ジンクホワイト (祥伝社コミック文庫 こ 1-3)』を思い出した)。というのも、前半部の「アート」批判は、全体としていわゆる「ありのままの自分」やら「自分探し」を批判するという文脈で読めてしまうので、面白かったけど、「自分探し」批判をよく目にしている(口にもしている)ひねくれ者の僕のような人間としては「そうだろうな」で終わってしまいかねないので(これは大野さんのせいではなく、僕のせい)、後半の方がオリジナリティある読み物として楽しめた。またこの「告白」は、前半部をただの悪口に終わらさない作用も持っているしね。

あと、ちょっと話はずれるが、僕は最近友人の小池靖id:ykoike)君の新書を読んで、彼に感想のメールを書いた。

ちょっと批判めいたことも書いたのだが、その批判とは、小池君が例えば釈迦やイエス細木数子江原啓之をある意味同一平面上において論じている部分があって、僕はそこに引っかかってしまったのだが、よくよく考えれば、それこそ僕は「本当の宗教って、そんなもんじゃないよ」という議論を彼にふっかけていたのだ。僕も「真の宗教」なるものを想定しているくらいにはロマンティストなんである(でなけりゃ、宗教学者なんかやっているものか)。

結論として、上記の本を読んで、改めて様々な場面で立ち現れる「authenticityの呪縛」に思いを致した次第。要するに、「他人事」じゃないよなってことです。も一つついでに言うと、芸術も学問も「目利き」というか、専門家がいて、その専門家はものを知らない素人を馬鹿にしつつ、そういう素人が多いことで飯を食っているという因果な商売なのだなあ、ということも身につまされた。ただ、「専門家」になるにはそれこそ人並み外れた努力(努力無しでやれる人の場合は「業」)が必要だけど。