美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

カルト問題とスピリチュアリティ

入試業務は早めに終わったが、せっかく大学に来たし、何せ自宅より余程暖かいので、読書及びお仕事をすることに決定。読みかけだった以下の本を読了。研究者仲間の大谷さんがおっしゃるように、「現代宗教研究における研究者の立場性と研究の公的性格に関する問題提起的な議論が本書全体を通底して」いた。

目次は以下の通り。

はじめに
序 カルト問題の比較文化社会学……櫻井義秀
Ⅰ カルト問題
1 人間関係への嗜癖としての回心―「摂理」と学生・青年信者…櫻井義秀
2 過程としての回心―エホバの証人福音派からカトリックへ…渡辺 学
3 脱会過程の諸相―エホバの証人と脱会カウンセリング…猪瀬優理
4 脱落復帰=リスタートに向けて―引きこもりとカルト…渡邉 太

II スピリチュアリティ現象
5 宗教研究における「当事者性」とスピリチュアリティ論…土屋 博
6 被害者のクレイムとスピリチュアリティ…小池 靖
7 現代日本社会とスピリチュアリティ・ブーム…櫻井義秀
資料 参考サイト・参考文献案内…中西尋子
あとがき

やはり、編著者の櫻井先生も自覚なさっているように、これはカルト批判の書でもあり(僕などは授業において、触法活動をしたグループのみをカルトと呼ぶべきだ、くらいしか踏み込んでいないけど)、他の先生方の「スピリチュアリティ研究」への批判の書でもあるところがミソ。特に櫻井先生と、僕の友人小池靖君(id:ykoike)は「僕の知り合いの中でもっとも身も蓋もないことをいう宗教社会学者」の筆頭なので(笑)、論文の内容は大体予想は付いていたのだが、それを上回る言葉が散見された。
僕などはまだ人間が甘ちゃんなので、櫻井先生の後書きの言葉を借りると、

現代の宗教研究の中には、スピリチュアリティが宗教の現代的な形態ないしは未来形となっていくのではないかという予測にもとづき、スピリチュアリティの気づき、つながり、成長していこうとする心的態度に現代社会の諸問題を解決する可能性を展望するようなものがある。(p.287)

という感じのポジションかな、とは思う。でも、小池君の影響で、ちょっと「身も蓋もない側」に傾きつつあるけど(笑)。
僕は宗教研究と植民地研究という、共に「立場性」が厳しく問われる(最近はこればかりがメタ的に厳しく問われているかも知れないが)分野を手がけているので、耳の痛い部分が多かったなあ。対象への没入、とまではいかなくても、内在的理解を心掛けつつ、過剰な被害者化victimization*1(小池君の論文のテーマはこれだった)の言説に足をすくわれることもなく、という危ういところを歩もうとしている、というくらいの自覚はあるのだ。
こういう僕の立場からして、渡邊太先生の論文は非常に興味深かった。彼は「引きこもり」などの「社会的弱者」を巡るポリティックスに触れているが、引きこもりにおいては、引きこもっている現状を肯定して欲しいという承認の欲求と、引きこもっている状態から脱出させて欲しいという要求が並存し、相克していると指摘し、社会学者の岸政彦先生の「民族的少数派が、差別的なカテゴリーを否定しながら、それに依拠して運動とアイデンティティを展開せざるを得ない」状況説明も引用して(p.158)、マイノリティは一見矛盾するこうした戦略を採るほかないことが示されており、これなどは考えさせられた*2

*1:慌てて付け足しておくが、僕は「あなたは被害者、何も悪いところはなかった」という言葉が被害者を癒す効果があることや、犯罪被害者の家族の救済そのものを否定しない(できるわけがない)。「過剰な」という言葉を付けているのは、被害者化に一定の意義を認めているからこそである。既成宗教は多く「みんな罪人」と教えてきたわけだが、それに対するリアクタンスのような気もするな、被害者化って

*2:ちょっと思い出したのが「戦略的本質主義」なんだけど、あれはポジティヴにアイデンティティ(多少スティグマっぽくても)を押し出すというニュアンスなので、ちょっとずれるかな