美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

背中を見て・・・

昨日のFD集会で強調されていたのは、要するに「今までみたいに、俺の背中を見て勝手に成長しろ、という大学教育はもうダメで、きめ細やかな、そして組織的、体系だった教育を施してやらねばならぬ」というものだった。そういう事を頭の片隅に、澱のように残したまま、今朝の内田樹先生のブログを読むと、ずんと来た。

教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。
教育の本義は「子どもの欲望」を起動させることである。
今の子どもたちが劇的に学びの意欲を失っているのは、教育する側の大人たちが「欲望」の語義を読み違えているからである。
現代の大人たちのほとんどは「子どもの欲望」もまた収入や地位や威信や情報や文化資本という外形的なものでしか起動しないと思っている。
だから、「勉強すればいい学校に入れる」とか「練習すれば県大会に出られる」というような近視眼的な目標設定にすがりつく。
だが、本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである。
「いわゆる目標」なるものは、そのような本源的快楽を上積みするための「スパイス」にすぎない。
教師の仕事はだから「機嫌良く仕事をすること」に尽くされると私は思っている。

これは中高の先生の資質についての文章なのだが、大学にもそのまま当てはまると思う。けど、こういうのをある意味否定するのが昨今の文部科学省の通達であり、その意に沿って行われるFD集会(の結論)なのだから、頭が痛い。
内田先生は、大学生にも「自分探しをやっていると(株)リクルートの餌になっちゃうよ(意訳)」というアナウンスメントもしており、これまた共感。