美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

国家神道について

近々『国家神道再考―祭政一致国家の形成と展開 (久伊豆神社小教院叢書)』の書評会があるので、参考になると思い、以下の本を読んでいる。ずっと積ん読だったのだ。

国家と祭祀―国家神道の現在

国家と祭祀―国家神道の現在

たしかにこの子安先生の本は、「国家神道」を再考しようとする人々にとって、けっこう衝撃的だったようだ(マイナスの意味で。事実、『国家神道再考―祭政一致国家の形成と展開 (久伊豆神社小教院叢書)』の後書きでそのことが語られている)。
確かに、断言口調できつい部分もあるし(それが子安先生の持ち味の一つではあるのだが)、僕もちょっとどうかな、と思う部分はある(特に「見直し派」と子安先生がくくる分類は、ちょっと大雑把すぎるだろう。けっこうグラデーションがあるのではと思う。特に新田均氏と山口輝臣氏は、一緒に「見直し派」のカテゴリーには入れられないだろう)。しかし、「国家神道」再考派の「欲望」をえぐる彼の批評は的を外してはいないと思う。
僕が思うに国家神道を批判、弾劾する側は国家神道を大きく描きすぎ、国家神道及び神社神道をある意味擁護する側は逆に戦前の神道の果たした役割を過小に評価しすぎ、という対立がある。僕は「おいしいとこ取り」の人間だが、立ち位置としては「何でもかんでも国家神道の帰結とするのは問題だが、広い範囲で影響を与えていたのは事実。でも、実際の神社神道が国家の縛りを受けて自由に活動できなかったことは認めねばならない」と言うところだ。僕が以前調べたところ、例えば朝鮮神宮の宮司はいわゆるお祓いとかの「宗教活動」が禁止され、心のこもっていない強制的な参拝だけが続く現状を憂い「これでは仏作って魂入れず」だと嘆いているのだ(さすがに宮司からのこの台詞には失笑してしまったが)。
問うべきは、例えば教育勅語御真影はいかなる意味で「神道的」「宗教的」だったか、ということだろう(機能主義的には、明らかに「宗教的機能」を果たしていたと僕は見る)。まあ、教育勅語は「神道的」だとは思わないが、「国体神道」の中に包摂されるような性格のものだったし、と話はややこしくなるのだが。