美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

レジュメ第一稿完成

来月初頭に行われる『国家神道再考―祭政一致国家の形成と展開 (久伊豆神社小教院叢書)』の書評会のためのレジュメの第一稿を、とりあえず完成させる。数日おいてもう一度見直してからメールでお送りする予定。いやあ、疲れた。簡単に言うと、僕と真逆の考えの論文なんだもんなあ(笑)。僕もついつい「頑固な文化サヨク」として振る舞うしかなくなるじゃないか。

で、今回、問題にしたいのは「実証主義」の限界、という事。
例えば、法令や命令書やイデオロギー的な書籍があったからと言っても、必ずしも十全にその効力が発揮されたわけではなく、逆にそのようなものが無くても効力を発揮するような事例を見なければならないのでは、と思うのだ。「国体」や「非国民」という言葉は「定義」がなかったからこそ、恐ろしいほどの効力を発揮したのではなかったか?「国家神道」はちゃんとした定義がお上から与えられていなかったのは事実だが、それだからといって、神道家達が「手が白い」事を主張するのはいかがなものか(力を振るう事ができなかった、という主張はともかくとして)。
また、よしんば法令などがあったとしても、どのように解釈されるかは、まさにその時代の要請によるのでは、とおもう。制定時は思いもかけなかった法解釈がなされる、という事もありえるだろう(天皇機関説や、帝国憲法28条の「信教の自由」の条文にある「安寧秩序ヲ妨ケス臣民タルノ義務ニ背カサル限リ」の解釈など)。
要するに、内心に関わる「宗教」や「差別」などの問題の考察には、定型句で固められた言説(戦時中の言論活動なんて、天皇制と国体の文法と語彙でしか喋られない状況だった。そういう言説は分析しても、おおむね不毛。不自由な言語状況だから、アクロバティックな「京都学派」とか、一読してのよく判らないようにわざと書く南原繁のようなのもでてくる)や、実定法の「外」への想像力が不可欠なのでは、と思ったのだ(敢えて走り書きのメモを残す)。