システムとしての国家神道
今日、恩師の新書を読了。
- 作者: 島薗進
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/07/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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僕がこの本を読んでいて思ったのはいわゆる「天皇無謬説」「天皇不親政説」と、「国家神道」に関する神道側(研究者)の主張(「国家神道に神社神道は大きく関与してはいない。どちらかというと政府から掣肘されていた被害者」というような考え方、とザックリ纏めておく)との相似性。これは本書の最後の方で取り上げられている和辻哲郎の「象徴天皇論」などからの思いつき。GHQの「神道指令」によっていわゆる「国家神道」は解体されて、神道側からすればそれによって神道の正しいあり方が歪まされた、という思いがあるだろうが、GHQが皇室神道をオミットしたおかげで、皇室神道はほぼそのままの形を残せたし、神社自体も一つも解体されることなく存続している。天皇自体がGHQの判断で「免罪」されたのも周知の通り(我が身を省みずにマッカーサーに直訴した、という「昭和天皇いい人伝説」まで流布している)。その天皇無謬説と相似形で「神道自体は悪くなく、それを利用しようとした連中が悪かったのだ」という「神道無謬論」がいつの間にか定着してはいないか?要するに、不倶戴天の敵と神道側が見なすGHQの「神道指令」と、現在の神道側の考えは、僕は相似形、もっときつく言えば共犯関係にあるとさえ思う。
もっとも考えさせられたのは、本書の最終章。この書の最終章は現代にも残る「国家神道」を考察の対象としている。僕などは実は卒論で問題視したのだが(若書きの生硬な部分が目立って恥ずかしいが)、戦後の裁判においても「神道=非宗教論」のような考えは形を変えつつ残っている。先生が考えている「戦後の国家神道」は主に「皇室神道」と「神社本庁などに見られる天皇崇敬を軸とした政治運動」の二つだが、僕は後者のバリエーションの一つとして裁判所の判断も付け加えたいところ。