美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

神道とは何か

今日は京都仏教会主催の研究会。発表者は薗田稔先生。僕たちにとって薗田先生は、まずピーター・バーガーの翻訳者として記憶されている。

聖なる天蓋―神聖世界の社会学 (1979年)

聖なる天蓋―神聖世界の社会学 (1979年)

今日のお話しは、古代まで遡って、神道とはどのような「宗教」であるか、というのを再考しようとしたもの。以前から先生が唱えている議論だと思う。
誰でもの神道―宗教の日本的可能性

誰でもの神道―宗教の日本的可能性

大分前に、図書館で読んだ記憶がある(手元にはない)。
今日の議論の骨子を僕なりに乱暴にまとめるなら、以下のようなことだったと思う。宗教といっても実は二種類あり、「共同体の宗教(communal religion)」と「宗教の共同体(religious community)」とに分けられる。前者の代表が神道のような存在形態であり、後者が、今我々が普通に思い浮かべる教団宗教のことである。儀式・儀礼が中心の宗教と、信仰中心の宗教と言い直しても良い。であるから、神道を教団宗教のように扱っても、どうしても齟齬が生じる。だから、そこから考え直してみないか、ということだったと思う(乱暴すぎて済みません)。
今回はある意味意図的に前近代の神道の在り方が取り上げられていたが、近代以降の国家神道は、僕などから見れば、やはり「宗教の共同体」なのに、自然な「共同体の宗教」の顔をしてまかり通ろうとした無理があるように思われるなあ。
ともかく、薗田先生の穏やかな語り口と、こぼれ話が面白かった。いくつか例を挙げると、

  • 神は姿を見せず基本的には「隠れている存在(だから依代が必要)」。だから、仏像も本来なら観想する対象であり理想像であるはずなのに、神と同様に人々の目から隠され、「秘仏」となっていったのではないか(特に平安以降)。
  • 要素に分解して、純粋なものを取り出し本質を探る、という「科学的」「合理的」な思考が、国学の背後にあり、却って排他性を強めてしまった。
  • 明治以降の神仏分離の大きなマイナスとして、各神社の口伝で伝えられてきた伝統が断絶させられたことが挙げられる

などなど。
研究会の後は懇親会(えらく豪勢でびびる)。その後タクシーで京都駅に戻り、僕は研究会に出席していたM岡さんとN村君(ゼミの先輩後輩)とともに、僕の行きつけのカフェでコーヒーを飲みながら雑談。