美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

スピリチュアリティ革命

大学院の先輩で、色んな学会・研究会でお世話になっている樫尾直樹先生から、御著書を頂いた。ありがとうございます。

スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性

スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性

いままで『スピリチュアリティを生きる―新しい絆を求めて (せりかクリティク)』や『スピリチュアリティの社会学―現代世界の宗教性の探求 (SEKAISHISO SEMINAR)』という論文集をまとめてきた樫尾さんの単著なわけだが、この本が普通の研究書と一番違うのは、僕が見るに樫尾さんが自覚的にスピリチュアリティを称揚するアジテーターになっていることだと思う。もっと俗っぽくいうと、玉石混淆のこの手の運動から、普遍性を持つ良質のものを読者に提示する「ソムリエ」のような役割を果たしている、と言えば良かろうか(この部分が、賛否を引き起こす予感がする)。僕自身は今まで新霊性運動(ニューエージ、精神世界)の分野に研究者としても実践者としても深入りしたことがないので樫尾さんのようなスタンスはもちろん執れないが、様々な分野に横溢するスピリチュアリティを捉えねば現代社会の宗教性は解明できない、という基本的なスタンスは共有していると思っている。まあ、これは宗教なき社会とされている日本において、「宗教研究」を志した者の共通心性だと思っているが。樫尾さんがこの本の冒頭で曰く、

 もともと宗教の領域で行われていたことが、非宗教的にあふれ出ている、あるいは浸透していると読むことができるだろう。現代の宗教文化の特徴の一つは、そうした点にある。
 宗教はもとより、医療の現場におけるスピリチュアルケアをはじめ、看護、介護の現場、生命倫理、ヒーリング、セラピーや断酒会などのセルフヘルプ・グループ、食、エコロジーや教育、巡礼・遍路やアニメやマンガや映画などの大衆文化、そして経営に至るまで、医食/職教遊のさまざまな社会文化領域において、現代の宗教文化は現象している。いわば近代以降、特に戦後軽視され続けてきた宗教性が、社会と文化全体をその根底から包み込もうとしているかに見える。(pp.8-9)

このようなスピリチュアリティ(宗教性)の捉え方は、手前味噌だが、僕が『NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本』で書いた論文と通底すると思っている。ちなみに僕は冒頭にこう書きました。

「癒し」や「スピリチュアリティ」という言葉が、「宗教」やそれに類する運動周辺のみならず、医療や教育やカウンセリングなど様々な現場で使用されるようになった。この言葉は、宗教的な非日常性を表現する際に、ほどよく「宗教」という言葉から距離を取りたいという現代人の思いから普及したと言えるだろう。我々は現在、「宗教」といわず「スピリチュアリティ」という言葉で自らの「宗教性」を語ることが「しっくりする」時代を生きていると評せるだろう。
 本稿では、上記のような近現代の日本における「宗教」の扱われ方を念頭に置きつつ、現代的な問題を取り上げ、現在の我々にとって「宗教」とはどのような位相にあるのかを考察していきたいと思う。それは「医療・生命倫理」と「宗教(性)」という古くからの、しかし新しいテーマである(新しい問題は、医学の発達によって常に惹起されうる)。おおよその見取り図をあらかじめ言うならば、この領域において、近代性(合理性)に回収されないものとして「宗教性」が立ち現れる現場―換言すれば、今の我々にとって最もリアルな「宗教性」―をいくつも目撃することになるだろう。(川瀬「まつろわぬものとしての宗教」p.297)