美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

ベタな次元も重要

鈴木謙介さんの本を読了。

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

確かに面白かった。まあ、僕は社会哲学というか、公共性の議論とかロールズの正義論とか、そういう方面には疎いので(東浩紀君や北田暁大君の話とこの本の内容が僕の頭の中ではごった煮になっているけど)、そのあたりについての本書の論旨には「そうなんだ」と勉強させてもらっただけだが、ちょっと「ネット右翼」についての章(第5章)について一言二言(僕が実際云々できるのはこの部分だけだし)。
僕は先日、yskszkさんのこの本についての寸評に対して、ブックマークで「鈴木謙介氏の「ネット右翼」の解説は再考する必要あり」とメモ書きしたら、ご本人から同じくブックマーク上で「もちろん謙介氏のネット右翼に対する分析はもう少し緻密です、t-kawaseさん。なお統計的に若者のマスコミ不信が高まっているのは事実だが、そうした若者が「ネット右翼」になるかといえばそうではないとか」とご示唆を受けた(恐縮です)。
で、僕が問題にしたいのは箇条書きにすると、
1)鈴木謙介氏の指摘するような「解釈より端的な事実へ」という志向性に基づく流れ、というのはなるほどと思ったが、「マスコミ不信」や「嫌韓・嫌中」の他に、どのような具体例が挙げられるだろうか、という疑問。あと、ネット右翼が「端的な事実」にこだわるというが、「数字」とかの「端的な事実」にこだわるというのは、昔から歴史修正主義の常套手段だと思う(フランスの事例については、ピエール・ヴィダル=ナケの本を参照)。
2)僕が戦前の植民地問題を扱っている歴史系の研究者ゆえのこだわりと思うが、「嫌韓・嫌中」は、それこそ端的に日本のracismという伏流水の噴出ではないか、ということ。要するに、「解釈の拒否」という観点も重要だが、ポストコロニアルというか、戦前からの連続性というベタな次元も重要ということ
という2点にまとめられるか。
記憶の暗殺者たち

記憶の暗殺者たち

で、僕としての読後感は、やはり様々な本を読んで、ネットやら自分を取り巻く「セカイ」以外にも「世界」はあるんだ、ということに気付くしかないという、つまらない教養主義的なものになってしまうんだな(笑)。浅羽氏が言うように、セカイ系の悩みを抱え込んだ連中の「一種のカウンセリングや、メンヘル・ドラッグ」になった右翼・左翼など見たくもない*1
あと、本書の最後の「持続」という考え方は、非常に重要。実はこれもベタな次元だと思うのだが、ネット上で形成された(と見える)共同性やら繋がりがいつまで持続するか、今性急な結論は出せないが、ここにこそ、本書のタイトルである「ウェブ社会の思想」はかかっていると思う。

*1:浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎新書、2006年。鈴木氏のp.226より重引