美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

自己分析及び言い訳

昨日、macskaさんのエントリに対してちょっと「違和感」を表明したら、ご本人が丁寧な解説をコメントしてくださったわけだが、ちょっとこの半日ほど僕が考えていたことを自己分析及び言い訳としてメモしておきたい。

1)僕は浪花節的人間である
まず、実際の僕を知っている方ならお判りの通り(笑)、僕は大変義理堅い人間である。要するに浪花節的人間なのだ。だから僕のような人間は、実際に知っている人物に対して、妙に点が甘くなる傾向がある。「ああいうこと書いているけど、ご本人はいい人だからねえ」という具合に。逆に、学生時代からの気の置けない友人に対しては、彼・彼女が真面目なことを書いていようが「あいつ、柄にもなくこんなことを書きやがって」とこれまた妙に点が辛くなったりもするのだが。というわけで、実際の上野先生を多少(本当に「多少」です。授業に半年出て、彼女を指導教官とする友人の院ゼミ発表に何回か足を運んだ程度ですから、上野先生は僕のことを覚えてらっしゃらないと思う)知っている身として、どうしても点が甘くなってしまったことはmacskaさんに指摘されたし、僕も認めるところだ。そういう僕だから、macskaさんの上野先生に対するrudeな悪口に「カチン」と来てしまったのだ(「ホモフォビックな上野」批判の部分は良いのだ。ほとんど同意であることは既に述べたとおり。ただ「悪口」の部分は、お世辞にも上品とは言えなかったと思う)。

2)上野発言は「釣り」では?
僕はホモフォビックと見える(一見、そうとしか解釈できない)上野発言は、実はネット用語でいえば「壮大な釣り」なのではないか、と好意的に解釈した。つまり「ミソジナスじゃないゲイがいるならお目に掛かりたいもの」といった発言に対して、「上野はものを知らなすぎ。実際にはミソジナスじゃないゲイ集団や個人活動家は山ほどいる」という反論や、「僕(達)はミソジナスな傾向を出来るだけ改めようとしています」と名乗り出てくる人がいれば、それこそ、上野先生にしてみれば「してやったり」ということになるんじゃないだろうかと、ここまで上野先生の「戦略」を勘ぐって深読みしたわけである(これが最大限に好意的な深読みだと思うけど)。僕としては、上記で書いたように浪花節的な感覚から「上野先生が単純なホモフォビアではあろうはずがない」という好意的な前提(偏見)の下、想像をめぐらせているので、大外しの可能性もあるが。
あと、僕が問題にしたかったのは、上野千鶴子をして、ここまでホモフォビックな発言をさせたゲイグループのミソジニーの深さ」ということである(これも上野先生を贔屓しての発想であることはいうまでもない)。確かにmacskaさんの引用する上野発言は、まごうことのない「ホモフォビア」が表明されていると思う。でも「上野のホモフォビックな発言は許せない」と思うより僕は先に「上野先生、ゲイの人達と何があったんだろう」と思ってしまったのだ。要するに同じ発言を見て、僕は「ゲイグループのミソジニーの深さ」を想像し、macskaさんは「上野のホモフォビアの傾向」を重視したということ。つまり、解釈の重点が違った、ということだと思う。

まとめると、僕は「上野はホモフォビアおよびトランスフォビア」と切り捨てるより(勿論、そういう批判はあり、だと思う)、「上野が言うミソジナスではないゲイのあり方」を模索する方が多少は生産的かな、と思ったまでのことだ。