美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

太宰の罵倒芸その2

このフレーズも、初めて中学生の時読んで、文字通りシビれた。これも「如是我聞(二)」から。
さすが太宰、俺たちに言えないことを平然と言ってのける。そこにシビれる!あこがれるゥ!

君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。
 イエスから逃げ、詩から逃げ、ただの語学の教師と言われるのも口惜しく、ジャアナリズムの注文に応じて、何やら「ラビ」を装っている様子だが、君たちが、世の中に多少でも信頼を得ている最後の一つのものは何か。知りつつ、それを我が身の「地位」の保全のために、それとなく利用しているのならば、みっともないぞ。
 教養? それにも自信がないだろう。どだい、どれがおいしくて、どれがまずいのか、香気も、臭気も、区別が出来やしないんだから。ひとがいいと言う外国の「文豪」或いは「天才」を、百年もたってから、ただ、いいというだけなんだから。

 何もわからないくせに、あれこれ尤もらしいことを言うので、つい私もこんなことを書きたくなる。翻訳だけしていれあいいんだ。君の翻訳では、ずいぶん私もお蔭を蒙ったつもりなのだ。馬鹿なエッセイばかり書きやがって、この頃、君も、またあのイヒヒヒヒの先生も、あまり語学の勉強をしていないようじゃないか。語学の勉強を怠ったら、君たちは自滅だぜ。
 分を知ることだよ。繰り返して言うが、君たちは、語学の教師に過ぎないのだ。所謂「思想家」にさえなれないのだ。啓蒙家? プッ! ヴォルテール、ルソオの受難を知るや。せいぜい親孝行するさ。
 身を以てボオドレエルの憂鬱を、プルウストのアニュイを浴びて、あらわれるのは少くとも君たちの周囲からではあるまい。

最近、専門外のことの一知半解的な見解を元にして、適当な精神論的エッセイを書く大学教授も多いもんね。もちろん、これは自戒でもある。まあ、素人が口を出せる(特に政治的案件に関して)、というのも民主主義の重要な要素なのだが、素人が玄人を装っちゃいけない、ということです。あくまで「素人の考えなんですが」という自覚及び謙虚さは保持しないとね。

誤解の無いように申し添えますが、「優れた語学教師」というのは存在します。ちゃんとした学者(思想家)で語学教師という方を僕は何人も見てきました。
でも、残念ながら「単なる語学屋だな」という人にも何人か遭いました。どういう人かというと、「自分の狭い専門以外についてほとんど知らない」、「そもそも知ろうという気がない」だとか、「他分野、他専攻に対する尊重の意を示せない」とか。そういう人は、いくらその語学に通じていようと、単なる語学屋で、「学者」ではないと僕は思っています。

追記:太宰は上の文章で外国文学者(語学教師)を皮肉っていますが、これは色んな専門に置き換えられることはいうまでもありません(例:「君たちは、(覚えておくがよい)ただの宗教学の教師なのだ。」)。