美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

女らしく、男らしく

先日のumeten氏のエントリに刺激されて、つい購入。駅前の小さな本屋にこんなものが置いてあると、応援の意味で買ってあげたくなるではないか。

女が女を演じる―文学・欲望・消費

女が女を演じる―文学・欲望・消費

宝塚だけじゃなく、いわゆる「女性作家(女流作家)」や「演劇と女性」にまつわる問題を幅広く取り扱っている論集。二つ、三つまず読んでみるか(全部で一〇章ある)。
ついでに思い出したが、女らしい、男らしい、という言葉を聞いた時、太宰治の言葉がいつも浮かんでくる。高校時代の読書体験って、変に記憶力の良い時のものだから、残るよな。

頑固。怒り。冷淡。健康。自己中心。それが、すぐれた芸術家の特質のようにありがたがっている人もあるようだ。それらの気質は、すべて、すこぶる男性的のもののように受取られているらしいけれども、それは、かえって女性の本質なのである。男は、女のように容易には怒らず、そうして優しいものである。頑固などというものは、無教養のおかみさんが、持っている頗る下等な性質に過ぎない。先輩たちは、も少し、弱いものいじめを、やめたらどうか。所謂「文明」と、最も遠いものである。それは、腕力でしかない。おかみさんたちの、井戸端会議を、お聞きになってみると、なにかお気附きになる筈である。
太宰治「如是我聞 三」)

勿論こんな言葉、逆説と当てこすり(特に志賀直哉に対して)があふれているんだから鵜呑みにすることはないが、「らしさ」をひっくり返しそれを楽しむ営為というのは、結局その「らしさ」を補強しているんじゃないのかなあ、という疑問は結構昔から感じていた(要するに「本当の逸脱」はきわめて困難だ、ということなのだが)。

追記:今、半分ほど読み進めたが、著者の小平さんは「ジェンダー・バイアスをあげつらう単純な批判じゃ、却って差別構造の再生産になりかねない」ということに非常に自覚的(当然といえば当然か。バトラーとかセジウィックを経ているんだもんな)。この手の批評行為は、「パフォーマティヴィティ」をめぐって今すごくめんどくさいことをしなければどうにもならなくなったよな(要するに多方面に気配りしなくちゃいけない、ということ)。文学研究に行かなくて良かったぜ・・・(宗教学科を落ちたら、国文学科に行く予定だったのだ。まあ、宗教学科を進振りで落とされる方が難しいんだけど)。