美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

内在的理解

内在的理解、というのは良く宗教学や文化人類学で使われるタームで、その名の通り、ある集団の成員の「気持ち」をできるだけ汲み取ろうという姿勢と言っていいと思うが(もちろん、客観性を確保した上で、だが)、知らず知らずのうちに、僕は日常生活でそれを行っているのかも知れない。
元々、僕は妄想が暴走する質の人間ではあるが、ついつい周りの人の感情を余計なところまで忖度してしまう(時々その「深読み」は外れるのだが)。これって、一種の職業病かも(師匠の薫陶とは言えないだろう)。まあ、ホックシールド以来の「感情社会学」でも説明がつきそうだけどね。

先日、学科の同期の友人にちょっと職場の人間関係について愚痴をこぼしたのだが、彼から帰ってきたメールにあったのが、この「内在的理解」という言葉だった。今や宗教学を離れて今やビジネスの世界にいる彼からこの言葉を聞いて、目が覚める思いだった(T君、ありがとう)。

まあ、宗教学派の我々としては、「どうしてこの人はこのような考え方をするのかな。」とやや引いた立場から「内在的理解」に努めるしかないかもしれませんね。なんて・・・。

元々嫉妬深く、怒りっぽい僕があまり感情を露わにしないとしたら、「内在的理解」をしてしまい、ついつい色んな場面で躊躇うからだろう。「この人はこんなこというけど、それにはきっとああいう理由があるのだろう」という具合にね。
学問的な訓練が、表面的とはいえ人格陶冶に結びついた希有な例と言えよう(嘘)。