美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

大学における「教え」と学び」

またまた、内田樹先生だが、深く感じるところ(要するに僕自身身につまされて反省すること)があったので、メモ。

http://blog.tatsuru.com/archives/001066.php

しかし、この「全員シロート」体制というのは教育的にはきわめて効果的なものであることが三ヶ月やってきてよくわかった。
教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。
「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。
しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。
発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。
つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。
誰も正解を知らないクイズ番組みたいなものである。
いちばんみんなが納得のゆきそうな仮説を立てた人間がその回の「さしあたりの正解者」のポジションを得ることができる。
ただし、あくまでテンポラリーな正解者であり、翌週にその仮説を覆すような新たな知見が提示されれば、いやでも「正解者」の席を降りなければならない。
これは中国についての「ただしい知識」を身につける方法としてはかなり迂遠なやり方であるけれども、全員に主体的にゼミに参与させる教育方法としては「これ以上のものはない」というほどによくできた方法である。

僕などはまだまだ「若く」「未熟」な教師ゆえに、学生に対して圧倒的な知識量の差を作り出し、その水位差で講義やゼミをおこなっている傾向があると思う。内田先生がよく使う表現に則れば、僕はまだ「劫を経たおじさん」ではない。
「君たちい、こんなことも知らんのかね。まあ、知識がないところからは、何も始まらないわな」とばかりにゼミで僕が学生を睥睨するものだから、学生は益々発言しなくなり、僕はといえば「これだけヒントを教えてやっているのに、発言する奴がどうしてこうも少ないのか」と不満に思う、という悪循環をいつのまにやらしでかしていたようだ。

ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。
逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。

耳が痛い限りだ。
全く知識がない、というのは論外としても、あまり知らないことを一緒に考えたり読んでいくようなゼミは、もう少し「劫を経たら」やってみたい。