美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

paternal or maternal?

今日、ゼミ生のF原さんの卒論相談に乗っていたときに、頭の中でグルグル回っていたのは「俺の指導って、paternalなのかそれともmaternalなのか」という疑問だった。こんな疑問に答えなんて出ないのは判っているんだけど(定義でどうとでもなるしね)。
というのも、僕はどっちかというと学生が好きなテーマで好き放題調べて発表してくれればそれで良い、というタイプで、あれしろこれしろとはあまり言いたくないタイプ。もちろん最低限の指導(「こういう本を読んだら」とか、「こういう点に着目しろ」ぐらいは言うけど、テーマそのものをいじらない、ということ)。
僕の同僚は、ある意味僕よりよっぽど学生指導に真面目で、学生に入れ込む人も多く、勢いpaternalなノリになりがちのように見受けられる。自分のやり方を受け入れる学生を選別し指導する、というのは、「子供を選んでえこひいきする」機能を持つとされる「父」の振る舞いだろう。まあ「あなたのためを思ってこうするのよ」という「母の支配」もあるから、一概にpaternalと言えないかも知れぬが(こういう風に子供の先回りをして方向付けをするのは父も母も関係ないかも知れないな。頭がグルグル)。
僕はある意味ドライに「好きなことやってしくじったら、それこそ自己責任でしょ」と突き放したいと思っているところだが(今日のF原さんにもそういうことは言った)、これは学生のやることを選別せずとりあえず受け入れるmaternalな姿勢なのかな、少なくとも周りにはそう見えているのかもな、というようなことを考えていたのだ。
両方のバランスが大事、というのはつまらない結論だが、そうとしか言いようがない。しかし、教師はどうしてもpaternalに振る舞うこと(学生の未熟な考えをばっさり斬るような)が習慣と化しているので、意識的にmaternalな振る舞い(とりあえず彼らの話に耳を傾けるような)を心掛けた方が良いのかもしれない、と思った。