美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

差別・抑圧の移譲

今日の院ゼミで読んでいた本はこれ。

歴史としての戦後日本〈下〉

歴史としての戦後日本〈下〉

この中の、フランク・アパム「社会的弱者の人権」という論文について討議。この社会的弱者は「被差別部落・女性・公害病患者」という三者。この三者をまとめて論ずる、という視点がまず面白いと思った。レジュメはW邊君に作ってもらう(彼は近世の被差別民を研究しているので、うってつけ)。
ただ、この論文の被差別部落に関する記述は、ちょっと怪しいところも多く(社会学者の福岡安則先生が批判している。僕は学生時代、福岡先生の講義を聴いて、在日コリアンについてのレポートを書いたことがある。懐かしいな)、そのまま鵜呑みにすることができないが、アメリカの「アファーマティヴ・アクション」との比較の視座などは見習うところもあったかと思う。
公害病患者は、法意識が発達せずなかなか裁判に訴えない日本の風土のある側面に風穴を開けた、とこの論文では評されているが、実際はほとんどの患者は、裁判とは無縁の「ゼロ地帯」にずっと置き去りにされていた、というのがより正確な見方だと思う。フィクション混じりではあるが、水俣病の「リアル」を切りとった名作、石牟礼道子の『新装版 苦海浄土 (講談社文庫)』にあるように、国会議員に「お願いします」と頭を下げる患者の姿は、ほとんど仁政を期待する近世庶民と変わらないのだ(「近代化されざる民」などはこの時代多かったのだ。なかなか裁判に訴えなかったことは、彼らの失態ではない。行政側や企業の「近代性」の悪こそが問われなければならない)。
議論はだんだん「虐げられている層が、より下の層を苛める」という、いわゆる抑圧移譲の話になる。例えば明治初期には、どっちかというと下の方の「普通の人々」による被差別部落に対する襲撃が相次いだが、これはそれまで隔てられていた生活圏が重なることによって引き起こされたトラブルが大半だった(典型的には、学校で両者の子どもが机を並べる、という事態に反対して部落や小学校を襲撃した事件など)。現在、時々変な騒動を引き起こしている「在特会」みたいなグループとそのメンタリティは非常に似ている気もする(確認したわけではないが、在特会みたいなグループは、それほど経済的に恵まれた人々ではないだろう。世界的に見ても、ああいう活動に走るのは、そういう階層)。他にはNIMBY(Not In My Back Yard、うちの裏庭には勘弁)と呼ばれる動きもある。これは例えば近所に葬儀場などを建てる計画などがあったとき、地域住民がこぞってそれに反対する運動を指す言葉だが、結局「より低い方へ」色々押しつけられてしまうわけだ。
「ケガレ」という概念は、人間社会からなくなりはしないので、この問題は容易な解決策は見出せないし、でもずっと考えていかざるを得ない問題であり続けるだろう。
排除する社会・受容する社会―現代ケガレ論 (歴博フォーラム)

排除する社会・受容する社会―現代ケガレ論 (歴博フォーラム)

↑「NIMBY」という言葉はこの本で教えてもらった。今度はこの本のある論文も読む予定。