美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「人情」の人間だからな、俺

今朝、通勤中に読了。

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)

いやあ、身も蓋もないよなあ、というのが第一印象。面白かったんですけどね、僕は「義理人情」の人間だから、なかなか「それは論理的に・・・」と割り切れないんだよな。逆に言うと、著者の言う「人に訴える議論(その人が言った内容ではなく、発言者の人格や経歴で判断するような議論の仕方)」をしがちだということだろう。政治家が「教員も倫理観を持って」とか言うのを聞いて「お前が言うな」と脊椎反射してしまうのなんか、その典型なわけだが(笑)。
以前、飯田泰之さんの本を読んだ感想のエントリで、友人のこいけ君がコメントで「定義にこだわる友人が昔いた」というような話をしていたけど、香西さんは

こちらを混乱させるために定義を求めているのだと思えば、まともに答えず突き放せばいい。「あなたの使っている○○という言葉を定義せよ」などと詰め寄られたら、木で鼻をくくるように、「あなたの○○の使い方と同じだと思ってくれてかまわない」とでも答えればいいのだ。もし使い方に違いがあれば、それを説明するのは相手の責任になる。(p.92)

と非常にクール。これは使えるよね(ちなみに飯田さんも、香西さんの本に少し言及しています)。

あと、僕が「使える」と思ったのは、いわゆる「立証責任」のおっかぶせ方(第5章)。「答えanswer」ではなく、「言い返しretort」っていうそうですが、馬鹿正直に「はい」か「いいえ」で答えるのではなく(これがanswer)、「あなたはどうしてそう思うのですか?」と切り返すようなやり方(これがretort)が有効。「議論においては、何かを主張した側に、それを論証する責任がまず課せられる(p.174)」からだ。
このあたりを読んでいて、僕が真っ先に連想したのは、いわゆる歴史修正主義者との不毛な論争。あれって大体「私を納得させるものを出せ」とか「無かったという証拠を示せ」とこっちに一方的に要求してくるのが多いからなあ。まあ、よしんば向こうが「無かった証拠」とやらを示してきても、噴飯ものなわけですけど。