美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

『死刑と無期懲役』

ネットをウロウロしていて、佐藤哲朗(ajita)さんの記事を見て購入、一気に読み終える。誤解のしようがないほど、どストレートなタイトル(本当は検察批判もけっこうなウェイトを占めているんだけど)。

死刑と無期懲役 (ちくま新書)

死刑と無期懲役 (ちくま新書)

著者は、元刑務官。何人もの死刑囚と遭い、死刑の現場も見てきた人。ということで、まさにモロに「当事者」。その当事者性にぐいぐい引き込まれる。
死刑に関しては、以前に例えば郷田マモラのマンガ『モリのアサガオ』とか、森達也監督の本も読んできたけど、刑務所に勤めていた人の声っていうのは初めて。最初は、一種の自己弁護とか、要するに「向こう側」の立場で書かれたものじゃないかと思っていたら、さにあらず。冤罪を作り出す検察の取り調べについても直言しているし、いわば「義憤」に貫かれた書だと評してよいだろう。僕が一番深く頷いた部分を少し引用する。

誤判を認めたとしても、国民の誰も裁判所を非難しない。むしろ英断に拍手をおくるだろう。検察もしかりだ。特捜検察で政財界の汚職などを暴く検察の姿がある限り、死刑事件など自らの過ちを認めても、国民の信頼はびくともしないはずだ。(p.151)

まあ、僕自身は検察のひどい取り調べの実態やら、腰砕けになった最近の姿とかを漏れ聞いて、ここまでナイーブにはなれないけど、「過ちを認めることを憚るなかれ」というのは、古今に通じる「哲理」だと思う。これが検察及び裁判官に一番欠けている「徳」だとすら思う。例えば免田栄さんが、自分にかつて死刑判決を下した裁判官や検事、取り調べた警官と会っても、一切謝罪の言葉がなかったと証言していた[森達也 2008:172]。最近だと、冤罪と判った菅谷利和さんに対する検察の態度も未だに「渋々」って感じだもんね。素直に「ごめんなさい」というよりは「世間もうるさいし、とりあえず謝っておくしかないよな」という風に感じるのは僕の偏見だろうか(実際、まだちゃんと謝ってないし)。「自分は正しい。間違えてなんかいない」との思いこみが(ご本人は「信念の強さ」と敢えて自分をごまかしているだろうけど)、人を一番残酷にさせているのだから(真面目で且つ「方向」を間違えた人が一番始末に負えない、というのも人間社会の哲理)。あと、裁判官は、弁護側から出された「科学的」な検証及び反論をほとんど取り上げず、調書に書かれた自白とそれを補強する証拠ばかりを取り上げるとも批判されている(p.159)。これはわかるなあ。裁判官は、いっちゃ何だけど、ほとんど検察の調書を写したような判決文書くって、ある弁護士(友人なんだけど)も批判していたしね。

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

モリのアサガオ―新人刑務官と或る死刑囚の物語 (1) (ACTION COMICS)

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