美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

脳死について

先日、衆議院で、例のA案(家族の許可さえあれば、ドナーの年齢制限無し)が通過して、ブログでこの問題を取り上げる人も多い。知り合いの大学教員で、明確にこれに異を唱え、グループを結成して声明を発表している人々もいる。僕も一瞬賛同しようとしたのだが、実は未だ思案が定まらない。「人体の資源視」が気持ち悪いし危険、というのは僕も思うのだが、「できることを何でやらないのか」と言われると、返答に窮するのも事実(臓器売買やら、そういう方面はとりあえず除外)。
脳死」についての考えというのは、立場によってころころ変わり得るものなので、一貫した態度が取れない。まあ、法律ではそういうことも言っていられないから、無理矢理一貫性を作ろうとして、現在各方面から疑義が呈されている状況なわけだが。例えば、僕自身は脳死になったら、角膜や腎臓を人にあげても良いとかつては思っていたりもしたのだが、結婚して妻にそのことを言うと「私、そういうのダメ」と言われたので、まず頓挫。かくいう僕も、いざ妻が脳死になったりしたら(彼女は上記のことを言う人なので、まず提供はしないのだが、もし提供も良いという立場になったと仮定しても)、すごく戸惑うだろうし、小さな子どもだったら、尚更迷いに迷うだろう。「自分は良いけど、いざ自分が同意を与える‘家族'の立場になったら」ということを考えるだけでも、思いは千々に乱れる。
本人の意思と家族の同意という二重のハードルがある現行法はパッと見まどろっこしく見えるけど、いざこのA案が通っちゃうと、何か良い物に見えてきた、というのが僕の実感。