美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

当事者性と言おうか、実存と言おうか

シャワーを浴びながら、思いついたことをメモ。
社会学とかでは「当事者性」というのが大きな問題となっているが、僕が「地雷」を踏む話題というのも、恐らくこの辺りだ(最近だと、フェミニズムとか、セクシャリティ問題の関連だな)。
端的に言って、僕は学者として「その対象」に興味や関心を持っているが、実はそれほど「その対象」に対して思い入れや、もしくは自分の実存を賭けるという契機がない場合が往々にしてある、ということだろう(少なくとも、僕が思い入れや実存的なものがあるつもりでも、当事者の方からないように見える可能性を否定できない)。
僕が自分の学問的立ち位置としてアイデンティファイしている「宗教学」も、宗教という「当事者にしか判らない(とされている)こと」を、「外から」「当事者とは違った立場で」観察する、というのが基本的な姿勢だ。社会学の一部も似たようなところがあると思うけどね(ね、K池君!)。僕はどうもそういう姿勢が習い性になっているきらいがあるのかも。単なる皮肉屋にはならないように自戒しているつもりだけど。

何が言いたかったかというと、ある問題に関心を持っている姿勢を見せながら、その問題に関するある事例について、自分でも驚くほど「無反応」「無関心」だったことを、僕は突きつけられたんだなあ、ということ(コメントやトラックバックやブックマークでの指摘で)。
要するに、「偽善」の仮面がはがれたというか。
でも、僕は自分の「偽善」の仮面がはがれたことを自覚している(つまり、ある事例を「スルー」してしまう機制が、自分の中にビルトインされているんだという自覚はある)。僕が今立っているポジションはそこだろう。