美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

佛教史学会出席

今日は花園大学で開催された、佛教史学会の大会に発表者として出席。僕はこの学会の会員ではないのだが、知り合いのT川さんに依頼されて(彼が今日の僕の発表の時の司会)、適当な発表をすることに。タイトルは「近代仏教者の「女性観」―西田天香の場合」というもので、実を言うと、数年前日本宗教学会で行った発表のロングバージョン(宗教学会は15分、今回は倍の30分)。そこそこ調べておきながらも、塩漬けにしていたのだが、T川さんからの依頼の時、仏教に絡めてのネタって、今はこれしかないよなあ、ということでリライトする事に。
発表は、日本古代美術史と、中世インド哲学の濃すぎる発表に挟まれて、箸休め的なものとして受け入れられたのではないか、と思っている。質問というより、アドヴァイスめいたことをいただく(挙手してくださったのは、末木文美士先生はじめ全員知り合い)。ありがとうございました。
懇親会では、発表者でもあり、今回の会場設営の裏方でもあった師茂樹id:moroshigeki)さんに初めてリアルでお目にかかり(こういうのが最近多いなあ、俺)、歓談。師さんとの対話で一番印象深かったのは、「天香が実際に女性にどう接したかというのはどれほど重要なのか」という問題。僕の発表は、西田天香という人物が、離婚問題で悩んでいると思しき頃に女性や恋愛に関する内容の日記を書いていて、その内容を分析したものだったが、「テクストはテクストとして読んで良いのか、それとも属人的、またはコンテクストに入れて読むべきものか」というような問題に帰着する質のものだったと言えるだろう。要するに、口では立派なことを言っていても実際の行動は目も当てられない、というのは良くあるパターンだが、そういう解釈をするべきなのか、思想は思想として吟味するべきなのか、という問題だ。例えば、天香が心酔したトルストイだって私生活はメチャクチャだし、天香に心酔した倉田百三なんかも、末木先生によれば何股もかけていて「ああ、俺は悪人だ、でも悪人正機の救いがある」とか勝手なことを抜かしていた、という事になる。取りあえず、僕の立場としては、書かれたものを虚心に読むことからスタートせざるをえないが、今度論文化するときは、時期の問題とかも(離婚はいつだったかとか、そういうのも含めて)入れなくちゃなあ(今回の発表ではそういう点については触れられなかった)。