美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「通俗道徳」の遵守と「裏切られ感」

昨日、小澤浩先生の本を読んでいて、ふと思ったこと。
安丸良夫先生もおっしゃっているが、大本(教)の教祖出口なおの神懸かりの背景には、「通俗道徳に裏切られた」という感覚があった(ここで言う「通俗道徳」とは、二宮尊徳とかを代表とするような、勤勉さを軸とした道徳律のこと)。
なおは隣近所に知られた「働き者」であったが、いくら働いても働いても生活は一向に改善する気配さえなく、夫は身を持ち崩し、子どもたちにも悩まされるという状態にあった。守れば幸せになれるはずの通俗道徳に裏切られ続けたなおの鬱屈が、彼女の吐き出すような「神の言葉」には込められている、というのは順当な見方であろう。

ここから僕がふと思い出したのは、例えば斎藤環氏の「引きこもりは一般に真面目すぎるくらいの人」であるという説明だ。引きこもりや、場合によっては一部のフリーター、NEETにも、もしかしたら、なおと同様、道徳律に裏切られたという感覚があるのではないか?「学校で言われたとおり、真面目に真面目にやってきたけど、ちっとも幸せではない」という「裏切られ感」が払拭しがたく彼らの内面に浸透しているのではないか?だからこそ、彼らにはなかなか、「こちらの世界」(まだ、建前としては通俗道徳の世界だ)からの「説得」が届きにくいのではないか。

そんなことを思った。

出口なお (朝日選書)

出口なお (朝日選書)