美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

宗教者と震災

久々にシンポジウムに参加。
国際宗教研究所・宗教者災害支援連絡会共同主催 公開シンポジウム「東日本大震災における宗教者の支援の現状と展望」というもので、プログラムは以下の通りだった。

【パネリスト】(50音順)
 板井正斉(皇學館大学准教授)
「災害・復興と神道文化――神社をめぐるエピソードから地域での役割を再考する」
 川上直哉(日本基督教団仙台市民教会主任担任牧師/心の相談室 室長補佐)
「公共性の回復――宗教間協力の成果と展望」
 山根幹雄(創価学会宮城県男子部長/宮城復興プロジェクト・リーダー)
「励ましの絆――創価学会東日本大震災での取り組み」
 吉田律子(真宗大谷派僧侶/サンガ岩手)
「呻く悲しみの中で」
【コメンテーター】
 岡田真美子(兵庫県立大学教授)
【司会】
 蓑輪顕量(東京大学教授)、弓山達也(大正大学教授)

シンポの内容・要点を僕なりに大雑把にまとめると?「社会資本・セーフティネットとしての寺社・教団」?「そこから派生する宗教の公共性(の獲得、回復)」?「寄り添うことの重要性(特にsurvivor's guiltに)」といったところか。
?についていえば、例えば板井先生が発表した内容で、地域の神社という昔からあった紐帯を元に、祭りを立ち上げる運動が紹介され、山根さんのご発表は、全国に広がる創価学会のネットワークの強さを改めて思いしらされるものだった。
?についていえば、どの教団・宗派も、被災者支援に関わり、積極的に役立ちたいと思っていても、マンパワーの不足や、「宗教」ということで行政や住民にうさんくさい目で見られる、という問題も立ちはだかる。そこで、川上さんが紹介されたような諸宗教感の協力体制が模索されているわけだ。
?についていうと、吉田さんのご発表は、津波で壊滅的な被害を受けた三陸の町を紹介し、そこで被災者に寄り添うこと(一種のカウンセリングといえる)、そして公的支援が打ち切られそうな人々の存在を忘れないことを強調されており、非常に感銘を受けた。「生き残った事への罪悪感survivor's guilt」というのは、ナチス強制収容所から奇跡的に生還できたユダヤ人たちを襲った感情として有名になった概念だが、これに苦しめられている人は、恐らく我々の想像を超えて多いだろう。吉田さんのご発表を聴きつつ、僕は去年の6月、沖縄で行った慰霊祭の聞き取り調査のことを思い出していた。沖縄戦は周知のように、酸鼻を極める地上戦であり、戦後、なかなかその体験を語れなかった、ということもよく言われるところであるが、これも「サバイバーズ・ギルト」の一典型例であろう。沖縄戦では、数年、いや数十年経たねば語られなかったこともあった。今回の震災での被災者が、言葉を紡ぎ出せるにはまだ時間がかかるであろう(まだ11ヶ月しか経っていないのである)。だから、物質的なものはもちろんだが、精神的なケアも、細く(本当は太くがいいに決まっているが)、長くする必要があるのだろう。
以上のようなことを考えさせられたシンポだった。