美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

umeten君への簡単なお返事

『思想地図』掲載の拙稿に対して、umeten君が詳細な書評を書いてくれた。まずはその労に感謝する。この書評、この雑誌全体の感想ではなくて、拙稿にだけが対象なのに、この長さ。これほどの熱意を込めて書いてくださったのだから、不完全な形ではあるが、今思いつく限りでお返事をしたい。

全体的な印象としては、彼は様々な言葉に独特の「定義」を施し、そして僕が用いているそれとの「ズレ」を起こさせる批評の方法を採っていると思うが、批評される側からすると、多少「季節外れの野菜を要求されて戸惑う八百屋さん」の気持ちにならないでもない(笑)。

まず、拙稿では宗教社会学で言う「世俗化」を説明し、要するに「世俗化された現代日本」というのを最初に提示しようとしているわけだが、umeten君は

だとすれば、「世俗化」とは何も宗教に限ったことではなく、「権威あるものをノイズとして処理することが冒涜的ではなくなる過程」と言うことができるのはないのか。

と述べるが、確かに面白い着想だ。なるほど、医者の「インフォームド・コンセント」も、患者が求める「セカンド・オピニオン」も医者の権威が失墜したから、というように見えるかも知れない。エホバの証人について彼は、僕の意見についてこう述べる。

むしろ、「エホバの証人」のプレモダンな要求は、医療技術というハイパーモダンによって支えられるようになった、ハイパーモダンの成立によって通じるようになった、というべきではないのか。

それはそうだろう。進歩した医学が彼らの要求を通してしまった、という点は見逃せないのだが、僕の力点は、彼らの要求がもし「安楽死」や「延命処置の拒否」というものならどうなのか、という点にある。全て「技術論(ハイパーモダンという言葉が用いられているが、実現されたテクノロジーは普通に「モダン」だと思う)」だけで話を進めているわけではない。

脳死・臓器移植問題に関する僕の諸説について、彼は「それだけではない」と、「死体」に対する信仰をあげている。

山岳事故や海難事故を思い出して欲しい。どう考えてもすでに死んでいる人間についても、「死体」が発見されない限り「死者」扱いをすることがタブー視されるというこの国の「空気」は、まぎれもなく「宗教性」に満ち満ちているのではないのか。日本人の「死体」に対する信仰がはっきりとここには示されている。

これも面白い視点かと思った。僕の意見への反論というよりは、補強材料を提供してもらった気分だが。確かに、太平洋戦争の激戦地やシベリアに「遺骨」を収集しに行く人はいまだに大勢いる。日本人の遺体に対する「執着」は、えひめ丸事件の時などもアメリカ側に驚かれたのではなかったか(記憶が曖昧だが)。でも、「死体愛」という言葉は、ネクロフィリアみたいで嫌なので「遺体へのこだわり」とか「遺体フェティシズム」とか、そういう言葉でもいいように思う。確かに、このような感覚が遺体を破壊する臓器移植や、医学部への解剖用献体などのハードルになっているのかも知れない(最近のニュースでは、献体希望者が多すぎて困ったことに・・・というのも漏れ聞いたが)。
あと、ライフスペースや「ゲーム脳」の話はちょっとずれていると思う(「死体へのこだわり」ではなくて「死の定義」の問題だろう)。

水子供養の部分に関しては、僕はラフルーアの「道徳的ブリコラージュ」という言葉を引いて、umeten君の言わんとすることに近いことを言ったつもりなので、とりあえずスルー(先祖供養がスライドしたかどうかは、断定できないが)。
一つえぐい情報を述べると、水子供養が70年代に隆盛してきた理由として、戦後のドタバタの時の中絶が遠因となって、ちょうど更年期を迎えた中絶体験者の多くがその時期に体調を悪くして、水子の「災因論」に引き込まれた、というのもあるらしい。

先端医療についての僕の論旨のumeten君のまとめは適切だと思うが、彼の主張の根幹となる部分、すなわち

そして、ここにきてついに、もう一方の「宗教性」のまったき前景化が訪れる。すなわち、「拒否することによって自分の「人間性」を確認している」という一文に示される「人間性」なるもの。この「人間性」への信仰、「人間主義」「ヒューマニズム」こそが、もう一方の「宗教性」、信仰していることすら意識されない真の信仰、「近代」における「神」なのである。

という部分だが、この辺りが、僕と彼の重なっているようで重なっていない部分(もしくは重なっていなさそうで、重なっている部分)なのだろう。
僕が述べている「人間性」は、「宗教性」とほぼ同義のものとして使用している(それは拙稿をお読みの方はすぐ判るだろう)。つまり「人間性とは、宗教性を感じ取れることである」「宗教性とは人間性の中核に位置するものである」といった――論文中では、「循環論法的」と表現しているが――雑駁な用い方自体に対する批判は甘受しなければなるまい。これは「非人間的な近代(医療)」という、俗耳に入りやすい「敵」を僕が措定し、それに抵抗するものを「人間性=宗教性」とする構図で、この論を書いたからである。もっと言えば、人間を越えた何かがあると思えるような感受性を人間性と僕は呼んでいるのだ。要するに、僕は非常にこの論では宗教(性)をポジティヴなものとして描いている。
「ナチズムは人間主義ヒューマニズム)だ」という命題は、現代思想では良く取り上げられたトピックだと思うが、もちろんここでの「人間主義」というのは、人間中心主義、神を殺して全てを人間の手で成し遂げようとする「ヒューマニズム」のことである。別にフランクフルターを気取るつもりもないが、僕が想定している「まつろわぬもの」とは、このナチズム的な「人間主義」に対抗するものという意味である。

あと、

まとめに先だって、論者はこのような事例において立ち現れる「宗教性」が、「信仰なき現代人にとっての「聖の顕現(ヒエロファニー)」なのだ」という。だが、宗教機能主義に立つ論者がこのような単語をサラッと吐くのはよほど会議で疲れていたのだろうとしか思えない。

という部分は余計(笑)。確かに会議で疲れていたけどさ。たまには僕もエリアーデを使いたくなるの。「宗教の代替物」というのは、「それにヒエロファニーを見出せるもの」だとも言えるしね。

さて、最後のあたりで問題になってくるのは、umeten君が用いる「まつろわぬもの」という言葉の含意だ。彼は進歩する医療テクノロジーが、近代最大の「宗教」である「人間主義」を破壊する「真にまつろわぬもの」だと結論部近くで述べている。

こうして見れば、「宗教」とは「人間主義」=「近代という真の宗教」に「まつろうもの(服従するもの)」以外の何者でもなく、「まつろわぬもの」とはテクノロジーによって「人間性」を「破壊」する、「医療」に対してこそふさわしい呼び名ではないのか。

この使い方は、端的に僕のとはズレている。価値中立的に「まつろわぬもの=宗教」という定義を僕は取っていないのだ(umeten君は敢えて戦略的にそういう定義付けをしている)。だから、僕の立場からは「医療の側に(隠れた)宗教性=まつろわぬものがある」とする彼の意見には与することはできない。言葉遊びとしても、機能論的にも。

あと、結末部分で

すなわち、「ひきこもり」「無業者」などは、まさに「まつろわぬもの(服従しないもの)」として「顕現」しているのではないか。
あるいは、それらこそが「聖なるもの」として迎えられねばならないものなのではないだろうか。

とあるが、僕は別段、このような存在を「それらこそが」と優先しなければならないとは思わない。が、それらを「聖なるもの」として迎え入れる姿勢こそが「宗教的」だとは思う。

最後では

ヒューマニズム」の論理の限界が生み出す当然の帰結こそが「テロリズム」であり、「テロリズム」とは「ヒューマニズム」の血を分けた兄弟なのだ。

とあるが、「テロ」はumeten君がいつも口にしていることなので、一読した時は「やっぱりそういう結論に持って行きやがったか」と思ったりもしたのだが、これはある意味当然。ヒューマニズムへの信頼の上に、テロ行為は行われる。だから、「宗教的」な信念でもってテロが起こるのだ。「一殺多生」とか、「Destroying the world to save it(これはアメリカの心理学者リフトンの『終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か』の原題)」とか言って。
まあ、僕の論文の内容からは遠く離れちゃっているけど(笑)。

あと、彼の僕の意見のまとめ方に細かい文句はあるのだが(僕はそこまで言ってはいない、というようなまとめ方の部分が多少ある。わざと曖昧にぼかしたのに、僕がきつい断定を下したように見えたりする)、大体のところ、僕の意を汲んでくれているので、ここでは立ち入らない。
さすがに夜も更けた、もう寝る。