美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

亜インテリ

宮台先生の、ある意味痛快すぎる罵詈雑言。太宰の「如是我聞」の後継者はこの人かも知れない・・・。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=335

■その答えを一口で言えば、丸山がインテリの頂点だったために、亜インテリ(竹内氏は疑似インテリと表記しますが)の妬みを買ったから、となります。実は、この図式は、丸山自身が、戦時ファシズムへの流れを翼賛した蓑田胸喜の日本主義的国粋主義の成り立ちを分析して示した図式と同じです。ご存じの通り、丸山はマンハンム流の[知識人/大衆]二元図式を踏まえ、[インテリ/亜インテリ/大衆]三元図式を提案しました。
丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です。日本的近代の齟齬は、すべて亜インテリに起因すると言うのです。亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。この者たちは、東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。
■竹内氏による記述の洗練を踏まえていえば、文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。なぜなら、反リベラルの立場をとると自動的に、政治資本や経済資本を持つ者への権力シフトを来すからです。だから、知的階層の頂点は、リベラルであることで自らの権力源泉を増やそうとします。だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。
■これが、大正・昭和のモダニズムを凋落させた、国士館大学教授・蓑田胸喜的なルサンチマンだというのが丸山の分析です。竹内氏は露骨に言いませんが、読めば分かるように同じ図式を丸山自身に適用する。即ち、丸山の影響力を台無しにさせたのは、『諸君』『正論』や「新しい歴史教科書をつくる会」に集うような三流学者どものルサンチマンだと言うのです。アカデミズムで三流以下の扱いの藤岡信勝とか八木秀次などです。
■要は、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力者や経済権力者と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイアラーキーの頂点を叩くという図式です。丸山によれば、戦前の蓑田胸喜による一連の活動がそうしたものの典型です。そして竹内洋によれば、ブント的噴き上がりを田吾作の心情倫理に過ぎぬと断じた丸山も、元ブントを含めた田吾作らによって同じ図式で葬られます。

ひえー。ここまでいうとは・・・。「さすが宮台先生(中略)そこにシビれる!あこがれるゥ!」と言いたいのですが、これを痛快と思ってしまうということは、自分は真のインテリでリベラルで、と言う思いこみがあるからだよな・・・と思っていたら、先にopebloさんがおっしゃっていました。
http://d.hatena.ne.jp/opemu/20060315/1142374433

こうした優越感って、愛国ネチズンの「先知先覚者」的な意識−「自虐史観に騙されている周りと違って、自分は歴史の真実を知っている」「マスコミの韓流ブームに煽られる大衆とは違って、自分は中国や韓国の真の姿に気付いている」−と大差ないのかもしれない。「亜インテリ」が「大衆」に優越感を感じるのと同様に、僕は、自分をリベラル=「インテリ」だと自認して、「亜インテリ」の人達に優越感を感じる。

何か「悟ったと思うと悟りから遠ざかる」というような禅問答のようなものも思いましたが、自戒したいと思います。