美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

ルームシェアについて

今日は通勤時間と空いた時間で、以下の本をさくっと読了(数時間で読めちゃった。文字もでかいし)。妻が「この本読んだことある?ちょっと話題になったみたい」と言ってきたのと、たまたまだが僕のゼミ生が最近幼なじみと二人でルームシェアし始めた、とも聞いたので試しに買ってみたのだ。

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

それほど疑問に思うところもなくスルスル読めたのだが、そのスルスル読めた、というのは、申し訳ないけどある種の「予定調和」というか、少なくとも僕には「これは意外な観点」「そういう見方もあったのか」という驚きがなかったと言うこと。確かに、アメリカに留学した人に聞くと、当たり前のようにルームシェアしているんだよね。でも日本では少ない。これは何故か、という問題だが、やはり日本が「家族」というものに比重を置きすぎているから(家の設計思想も含めて)と言うことになろうか。
僕の学生時代を思い出すと、学科の同級生のM嶋君が友人数名と(確か彼の高校時代の同級生たち)と世田谷の某所に2階建ての一軒家をシェアしており、一階のリビングはいわば「解放空間」となっており、よくそこで宴会したり(卒業式後の宴会もここでエンドレスで行われた)、麻雀したりしたものだ。青春の1ページですね。で、実は僕も、博士課程の時、ある友人から「ちょっと郊外の方で一軒家一緒に借りないか?」という誘いを受けていたのだが、僕がとっとと結婚して裏切った形(笑)になってしまい、結局ルームシェアは経験せずじまい。
でも、この本でも書いてあったが、「風邪引いてもおかゆくらいは誰かが買ってきてくれるだろう」という実利もさることながら、いわゆる「祝祭性」が若い時代のルームシェアにはつきもので(氷室冴子の『雑居時代』を読んでる年代だし、そういうものにあこがれてた)、それで僕も友人の例を見て心のどこかでうらやましく思っていたのだが、そんな祝祭性ではなく、もっとクールな「ガバナンス(p.189)」が本当は大事なんだろうな、と思う。

追記:そういえば、京都の町屋(長屋)再生の動きなんかも、これに連結するかもな、と思った。使わなくなった町屋をリノベーションして、若い「クリエイター」に貸して、新しい「路地」という共同体を創造しつつある実際の動きを取材して描かれた漫画は以下のもの(京都が舞台、ということで買って読んでいる)。

路地恋花 1 (アフタヌーンKC)

路地恋花 1 (アフタヌーンKC)

路地恋花(2) (アフタヌーンKC)

路地恋花(2) (アフタヌーンKC)