美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

国(公)立大学の意義

昨日の朝ブックマークを付けておいた記事が、合宿から帰ってきたらホットエントリになっていてびっくり。その朝日新聞の記事を少し引用。

国立大授業料、私大並みに 財務省、5200億円捻出案

財務省は19日の財政制度等審議会財務相の諮問機関)で、国立大学予算で授業料引き上げなどによって最大5200億円を捻出(ねんしゅつ)できるとの試案を発表した。生まれた財源を高度な研究や人材育成、奨学金の拡充に充てるべきだとの主張も盛り込んだ。国から国立大に配る運営費交付金(08年度予算で約1兆2千億円)の増額論議を牽制(けんせい)する狙いがあると見られる。
 試案は、授業料を私立大並みに引き上げることで約2700億円、大学設置基準を超える教員費を削ることで約2500億円の財源を確保できるとしている。「義務教育ではないので、一般的な教育自体のコストを(税金で)補填(ほてん)することには慎重であるべきだ」とし、「高等教育の機会均等は、貸与奨学金での対応が適当」とした。 (後略)

僕の感想としては「財務省が、教育に口出しするんじゃねえよ、あんた(財務省の官僚)も国立大学出ている癖に」という一言で尽きてしまうのだが、僕は敢えて単純化して、今のところ思いついた考えを三つほど箇条書きにしておきたい。

  1. 国立大学は(公立大学も)、基本的には私立大学よりも安い授業料(さすがに只とは言わぬ)で、広く教育機会を提供すべき存在であること。
  2. 「貸与奨学金」を本当に充実させるつもりがあるのかを本気で問いただしたい。
  3. 日本学術振興会の特別研究員は、給与水準を少し下げて(特にPDコースのを)、人数を例えば1.5倍に増やすべき。

一つ目について。例えば僕などは「大企業の部長クラス」の息子という、ある意味「東大生の平均値」みたいな立場だったが(東大の保護者の平均年収が国立大で一番高いというのは有名な話)、それでも周りには数は少なくても「貧乏だが、賢かった」ので東大に来た友人がいた。彼等は異口同音に「国立しか受験させてもらえないような家庭環境だった」と言っていた。トップ校の学生の保護者は高収入というのは事実ではあるが、建前として、国公立大学は「貧乏でも賢く向学心溢れる人材」の受け皿且つ涵養の場としてあるべき。そのような「努力」は私立大学にお願いする筋のものではない。
二つ目について。僕も日本育英会から博士課程時にお金を頂戴し(3年間。父の退職と僕の博士課程進学が重なり、ようやくもらえたのだ)、現在幸いなことに常勤の身分であるので、返済を免除されているが(15年勤めれば全免)、いっそ研究者養成コースたる博士課程以上は貸与よりは給付にすべきと思っている。日本はアメリカのような奨学金の数も金額も少ないことは周知の通り。「高等教育の機会均等は、貸与奨学金での対応が適当」というのなら、現行の奨学金制度のハードルをどれだけ下げるか、そしてどれくらいの人数増加を目論んでいるのかくらい試算して出すべきだろう(この審議会で、もしかしたら出されているのかも知れないが)。
三つめについては、昔からPDに落ちまくった(笑)僕が恨みも含めて提唱している案。ボーナスがないとは言え、けっこういただけるんですよ、これは(給料だから返済義務なし)。でも、これだけ大学院生及びオーヴァードクターが増えてしまった今(もちろん、これを徐々に減らしていくことも重要だけど)、とりあえずこの恩恵にあずかれる人間を増やすべきだと思う。学振は「当たる」「当たらない」と言われるようによく「宝くじ」扱いされているが、その現状を変えて欲しいな、と今は学生を指導する人間の一人として思う。