美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

中立を装うこと

学問(主に人文学だけど)ってのが中立を装うことによってその政治性を隠蔽し、その「政治性」込みで連綿と受け継がれてきたわけだけど、その問題性は今や明らかだよね、とサイードとか色んな人が言ってから早30年弱。それなのに、学者を名乗る者がいまだに自分のポジショナリティ(立ち位置)とか、自分の発言のパフォーマティヴィティ(自分の発言が結果としてどのように受け止められたり影響を与えたりするか)を、自分で「俺はそういうつもりはないもん」と言えば簡単に打ち消せると考えているというのはどういう事なのか(挨拶)。
このところ、大屋雄裕さんApemanさんの議論を見ていたのだが、僕はApemanさんに与する。大屋さんの議論は、僕から見ればまさに「中立を装う」事に終始しているように思えるからだ(その「中立を装ったことの結果」は敢えて無視、と言うスタンスでもあろう)。
時々大屋さんのブログは拝見していたが、その皮肉屋口調は彼の持ち味だからともかくとして、どうもしっくり来ないものを感じていた。僕が「情緒の人」で彼が「(多少モヒカン的な)法学者」だからかな、と簡単にスルーしていたのだが、上記のやりとりを見ていると、ついつい下手くそな大屋さんのモノマネをしたくなってしまった。僕が言いたいのは、上の「挨拶」に尽きる。
「心の狭い学究」と自己韜晦するのもけっこうだが(僕も良くする)、「言説のパフォーマティブな効果を気にするのは政治屋の仕事である(上記のエントリ)」と割り切るのはどうなんでしょ?大学って、そういうことも議論する場所なんじゃないの?