美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

どこまで「馴致」出来るか

街角に溢れる「グラフィティ(ペインティング)」「タギング(こっちはペインティングよりも簡略化されたものらしい)」について、仙台のボランティア団体が「知力の低下」と言ったことに、using_pleasureさんが反論しているが、どうもこの反論が、いまいちしっくり来ないのも確か。
過剰管理社会に対する危惧と、それに荷担しておきながらそれに無自覚な人に対するいらだちは判るけど、「そこまで庇ってやるほどのことか」という思いも、どうしてもしてしまうのだ。彼の過去に書いた「グラフィティ論」も読んだが、こういうものって、どこまで「馴致」出来るかが疑問だ。敢えて極端な喩えを出すが、暴走族に対して「この区間だけは暴走して良いよ」と言っても、誰も従わないだろう。だって彼らはとりあえず社会に「迷惑をかける」というマイナスのコミットメントをすることが目的で暴走しているのだから。「グラフィティ」や「タギング」にしても、そこにある種の反社会性があるからこそ、魅力的な行為なのではなかろうか。
あと、一般的な感覚としては、自宅や店の壁に、たとえ見事なグラフィティを描かれても、素直に喜べませんって。この「一般的な感覚」はやはり否定しようもないから、議論はやはりここから始めるべきだ。

ただ、そのような行為に走る若者の「ルサンチマン」の解消の方向を考えねばならないとは思うが、僕にはその方向が未だ見いだせていない。