美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

印象に残る講義

先日、パワポのプレゼンがどーたらこーたらと書いたら予想外の反響があったが(僕の意図を取り違えているのも見受けられたが、そういうのもネットの定め、仕方なし)、昨日東京大学出版会のPR誌『UP』5月号を読んでいると、考えさせられるエッセイがあった。
松浦寿輝先生の「かつて授業は「体験」であった」というエッセイ。
パワポを使った分かり易いプレゼンというのとは位相(というか次元)の違う体験の思い出話である。その先生の喋ることが殆ど判らないのにもかかわらず何故か耳を傾けてしまう、そして震撼させられてしまうような体験。具体的には松浦先生は駒場の哲学教師であった山本忠先生の講義でそのような戦慄するような体験をしたそうだ。

何かとてつもない大事な事柄が、他の誰にもできないような仕方で語られていることだけはわかる。この人の発する言葉一つ一つの背後には、恐ろしいほどの知的労力と時間の蓄積が潜んでおり、膨大な文化的記憶の層が畳みこまれていることもわかる。だが悲しい哉、無知と無学のゆえに、わたしにはその内容を具体的に理解することができない。彼がパルメニデスについて、ヘラクレイトスについて、アリストテレスについて語っていることを理解するには、結局、本を読まねばならないのだ。沢山の、沢山の、沢山の本を読まねばならず、その道には終わりというものがない。私はそのことだけは戦慄的に理解した。井上先生の講義から 何らかの知識なり情報なりを受け取ったわけではない。彼の講義は単に、ある決定的な「体験」だった。ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴び続けるという、恐ろしくも爽やかな、それは「体験」だったのである。(p.44)

僕がそのような講義ができているなどという思い上がりなど持ちようがないが、一種の「壁」のように学生に迫る教師のあり方、というのも実はあり(ハラスメントにならないような、という意味ですよ)と思っている僕にとっては、我が意を得たり、という思いがした。