美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

午後の会議中に

ずっと頭の中をよぎっていたのは、『銀河英雄伝説』の次の一節。ここまで大袈裟じゃないけど「良心的でいられる範囲では良心的」というのは、当たっているよな。

「私の心が痛みをおぼえないとでも思っているのか。非道は承知している。承知の上で私は国家の生存をとらざるをえんのだ」
「なるほど、あなたは良心的でいられる範囲では良心的な政治家らしい」
 辛辣な笑いがシェーンコップの端正な顔をななめに流れ落ちた。
「だが、結局のところ、あなたたち権力者はいつでも切り捨てるがわに立つ。手足を切りとるのは、確かに痛いでしょう。ですが、切り捨てられる手足から見れば、結局のところどんな涙も自己陶酔にすぎませんよ。自分は国のために私情を殺して筋をとおした、自分は何とかわいそうで、しかもりっぱな男なんだ、というわけですな。『泣いて馬謖を斬る』か、ふん。自分が犠牲にならずにすむなら、いくらだってうれし涙が出ようってものでしょうな」
田中芳樹銀河英雄伝説6 飛翔編』徳間書店、1985、p.174


別に某先生の口吻は、ここまでの毒舌には値しないけど、僕はどっちかというと「切り捨てられる側」だから、ちょっとは考えて欲しかったな。少なくとも「焼け太り」やら「甘い汁を吸える」立場ではない。
問題は、某先生が上記のレベロと違って、自分の言っていることのひどさを自覚していなさそうなことだ。何かなあ、人間としては「いい人」かも知れないけど、どういう「いい人」かが問題。あれだけ「本音」と「建前」が乖離しているのに気付かないのは、結構重傷。

もう一つ思い出したのが、僕の敬愛する英文学者中野好夫の「悪人礼賛」というエッセイの一節。

善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも思っているらしい。
中野好夫「悪人礼賛」、『中野好夫集2』筑摩書店、1984、p.210。

動機が善意からならば結果はどうあれ許す、というのは、相当人間ができていないと無理だ。ほとんど宗教家の領域だね。僕はまだまだそこまではなれない。