美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

Nowhere to call home

今日は、同僚の山口先生が主催された映画上映会と、監督とのトークというイベントに参加。山口先生はこの「Nowhere to call home」という映画の日本語字幕をご担当。以下、僕がTwitterで呟いた感想を繋げる形で、この映画の概要と思いついたことをまとめていきます。

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監督のジャスリン・フォードJocelyn Fordさんは、外国人記者として長年日本と中国で活動されてきた方で(外国人として初めて官邸記者クラブに入った方)、日本語も中国語も堪能。
そのジャスリンさんが偶然北京で、露天商のチベット人女性ザンタと出会うところから話は始まる。彼女は何故北京に出てきたのか?それは夫と死別し、嫁ぎ先での扱いに耐えかねて、息子と共に移り住んできたのである。ここでの身の上話で、夫の死別後、義父母から夫の兄弟との結婚を迫られたというのは、チベットにもレヴィレート婚(levirate)があるのかと知り、ちょっとびっくり。このレヴィレート婚は、一旦嫁いだ女性は嫁ぎ先の「財産」という考えから来るもの(旧約聖書のタマルの話が有名)。しかも彼女は息子を産んでいるので、その息子は婚家の跡取り(労働力)として当然勘定されている。彼女は身分証明書(これがないと中国では就職することもままならない)を義父に握られたまま北京に出稼ぎに来ている。
ザンタや息子が北京で、圧倒的マジョリティの漢族から差別、いじめを受けるというのはある意味「分かりやすい」が、この映画の陰影を深くしているのは、「漢族の女は殴られないだけまだまし」とこぼす場面。チベット族の「男尊女卑」は当然改善されるべきものだが、安直に「漢化」という道も選べない。この映画を見ている我々も安直に「だから彼らは我々によって啓蒙、文明化されるべき」という、帝国主義時代からおなじみの植民地正統化論に与するわけにも行かない、というジレンマ。百年前のエジプトでも、イギリスが「褐色の男から褐色の女性を護る」という言い方をしていたことを想起させられる。僕はチベット族内部のジェンダー問題の映像を見つつ、昔読んだ在日コリアンの女性が家庭内暴力で苦しめられた、という論文を読んだことも思いだしていた。あれは鄭瑛恵さんの論文だったか。あれも民族差別とジェンダー問題の複合。
もう一つこの映画が語る大きな問題は「言語」問題。いわゆる北京語(普通話)の読み書きができるのは高等教育に進む際には必須であることは言うまでもなく、少数民族は最低でも二重言語生活を強いられる。ザンタの家族の場合、チベット語と、彼ら独自の言語もあるから大変。映画ではザンタの義父が孫に「中国語を喋るな」と電話で怒鳴るシーンがあるが、家庭内でも意思疎通ができなくなる、というのは、移民社会ではよく聞く話。中国では、それが国内で起きてしまう。
あと、宗教学者としては、チベット人の仏教、死生観にも注目させられた。前世・現世・来世とカルマ観は、今現在の状況を解釈する際に使われる(あと、仏教徒であるがゆえに、故郷を捨てられないし、チベット族アイデンティティを捨てられない、ということも述べられる)。面白いのは、ザンタが、偶然知り合いとなった「頼れる外国人」たるジャスリンさんに「前世で家族だった」というシーン。これは伝統的な感覚と、交渉事に外国人を背後に立たせる(そうすると警察とかも掌を加える)という現在のstrategyが合わさったもの、と見るべきかも知れない。ジャスリンさんも彼女を通じてチベット問題や中国の都市問題を報道できる、というジャーナリストにとっては当然の「下心」があるわけだから、持ちつ持たれつなわけである。
取り敢えず、この企画をなさった山口先生と、わざわざいらしたジャスリン監督にお礼と感謝を。
ご興味のある方は、近所で上映会が開催される際には是非お出かけを。