美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

標的の村

今日は大阪梅田の大阪駅前第2ビルにある、大阪市立大学のサテライトキャンパスでおこなわれた「標的の村」というドキュメントの上映会に参加。このところ、同僚のフィールドワーク実習のお伴という形で年に一度は沖縄を訪れているのだが、深刻な基地問題の話を聞き取り調査したりという経験はまだなく、文字情報とニュース報道で知っている程度。だが、映像の形でここまでの物を見せられてしまうと、聞いていた話以上のことばかりで、90分間申し訳なさと怒りで胃が痛くなる映画だった。
山原(やんばる)のある集落の周りに、ヘリコプター訓練のためのヘリパッドの増設計画が、住民にろくな説明もなく強行される、というのがこの映画の骨子。もっと人里離れたところに作れば、という素朴な疑問は当然出てくるわけだが、実はこの村自体が訓練のためにわざと選ばれたというのだ。つまり、ジャングルの中の村の周りで訓練することこそ意味があるので、「仮想標的」としてその村はわざと選ばれた、というのである。いや「仮想」という字は取った方がよい。文字通り「標的」にされた集落なのだ。しかも、40年前には、ベトナム戦争時も同様な訓練が「ベトナム村」という名前でシミュレーションを住民参加でさせられていた、という事実も掘り起こされる。
そのヘリパッド建設反対運動で、東村(ひがしそん)・高江の住民の何人かはまさに行政によるSLAPP訴訟に晒される。「通行妨害」とか、そういう「言いがかり」である。「言いがかり」というのは、住民を写した「証拠写真」に写っていない、そのような場に一度も来ていなかった幼い少女までその訴状には名前を書かれていたことからも知れる。そういう点でも「標的」にされているのだ。
ドキュメントの後半は、普天間基地(今年の沖縄実習でその全貌を見下ろした。街のど真ん中にあるというのがどれだけいびつなことか!)を住民が封鎖する事件が中心。そこでは、防衛省関係者・警察と住民が「同じ沖縄県民同士」なのに分断され、やりたくもない「代理戦争」にかり出されている構図がはっきりとする。このような「分断統治」は「植民地統治」の基本中の基本。
改めて思ったのだが、これは、今国会で審議中の「安保法制」が通ったら、もっと非道なことをされるだろうな、と。