美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「定型句」にこそ意味がある場合もある

岸政彦さんの『同化と他者化』を読了。以下に簡単な読書メモと感想を記す。2年前から、同僚のU杉先生の沖縄実習に参加させてもらうようになってから、元々あった沖縄への興味がますます高まって、この岸さんの本も購入した次第。表紙は「驚きの黒さ」(笑)。生協書籍部で「もしやあれは・・・」と一発で判った。同じナカニシヤ出版で、同じ編集者が手がけた『社会的なもののために』は「驚きの白さ」だが。

同化と他者化 ―戦後沖縄の本土就職者たち―

同化と他者化 ―戦後沖縄の本土就職者たち―

これは岸さんがおこなったインタビュー調査の集大成とも言うべきもので、戦後、「復帰」前の沖縄から本土に就職して数年そこで過ごして今は沖縄にUターンしている人にインタビューして、そのメカニズムに迫ろうとしたものである。
まず我々は「復帰」前の沖縄からの若者の集団就職について「米軍政下の貧しい沖縄から、泣く泣く高度経済成長の日本にやってきた」という「物語」をつい想像しがちだが、これを岸さんは数々のデータで覆していく。簡単に言えば沖縄も多少いびつな経済構造だったとは言え、求人倍率は常に高く、「本土」に負けず劣らず経済復興と好景気が持続したのであり、地元でいくらでも就職できたにもかかわらず、わざわざ本土に就職しようという意欲が当時の沖縄の若者には溢れていた、というのを明らかにしたのが、第一章である。つまり経済的なプル/プッシュ要因だけではこの間の労働者移動は説明できないということである。
第二章はその「本土就職&Uターン」体験者の「語り」を、結構「長く」「多く」収録している。そこでの支配的な「語り」は「本土はあこがれの場所であり、本土の生活は楽しく差別もされなかったが、やはり故郷が恋しくなり、家族からの要請などもあって結局向こうには居着かずに戻ってきた」というものである。まさにこれが「異口同音」に語られるのだが、その「定型性」が持つ意味を、近年の構築主義的アプローチへの批判も絡めながら解説しているのが第三章である。
実は第二章を読んでいるときは「何で岸さん、こんな同じような語りをずっと延々引用しているのかな」という思いがあったことをここに告白しておこう。その「ネタ晴らし」が第三章で行われて、「そうだったのか」と腑に落ちた。お定まりの言説は、意識するしないにかかわらず、ある権力作用の結果である、というアプローチがなされることが多く、それはもちろん間違いではないのだが、別の角度から見ると、まさにその「定型句」がその人のリアリティを支えている、ということも十分考えられるのである。
僕も昔、ロバート・ベラーの『心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ(質的インタビュー調査の金字塔の一つ)』の翻訳者でもある指導教官の調査に参加して、主に新宗教教団の幹部候補生の皆さんに聞き取り調査をする、ということをやったことがある(その調査の一部は『現代日本人の生のゆくえ―つながりと自律』に所収。僕の名前はありませんが、その基礎データは作った)。実は、教団内部の皆さんの語りには、まさしく「定型」があり(どのようにして入信したか、どのような葛藤があったか、そしてどのようにそれを克服して今に至るか、など)、それをみんなの前で物語として語ることで、教団人としてのアイデンティティを固める、ということをしている教団もあるほどである(例えば真如苑のそのような行事については芳賀学・菊地裕生両氏の書を参照)。であるから、何人かをインタビューしているうちに、段々「すれてきた」僕は、「こっちの予想を裏切るようなことを喋ってくれないかなあ」という、「お前何様だよ」的且つマゾヒスティックな欲望が生じさえもしたのである。本書の第二章、三章はそのような苦い思い出を僕に思い出させた。
第四章で興味深かったのは、沖縄から本土に就職する若者に、本土に行っても恥をかかないようにとマナーやエチケットなどを学ばせる講習会(本土就職者合宿訓練)まで開いていたということである。この講習会では「日本人扱いしてもらえるように勤勉であれ(日本人化せよ)」というのと同時に「向こうでは沖縄の代表者として扱われるのだから、沖縄文化についていっぱしの知識を持って向こうで対応するように(沖縄人化せよ)」という二つの命令が同時に下されていた。岸さんが指摘するように、ここの「キモ」は「あくまでも文化的領域でのみ沖縄人化された身体(p.361)」が要請されたことであろう。このような「合宿」は、集団就職が「本土復帰運動の一環」と捉えられていたことを端的に物語るとともに、当時、沖縄人の軍人・軍属への本土並みの補償を「日本政府」に迫る動き(これも一つの日本人化)ともシンクロするものであろう(このことについては、北村毅氏に教えられた)。
結論では、この書のタイトル通り「同化と他者化」が論じられるが、ここでは「アイデンティティ」を「マイノリティ」がいかに獲得させられるか、という近年の議論の整理がなされ、結論としては「戦後の本土就職で起きたことは、むしろ日本人になろうとして逆に沖縄に「アイデンティティのUターン」を招いてしまったという、矛盾するプロセス」(p.385)、つまり「同化」は結局「他者化」を生み出さざるを得ないという矛盾である。
ついでに言うと、僕は植民地期朝鮮の「インテリ」たちの言説をいくつか追いかけて研究してきたが、「日本人以上の日本人」になろうとした朝鮮人インテリたちの苦悩は、近現代沖縄と重なる部分も多いし、その「定型性からにじみ出る意味」へのアプローチというのも、はばかりながら岸さんと僕の研究には共通点があるかも、等とも思った。
戦前の「沖縄人」の「本土」への移動に関してはかつて冨山一郎さんが詳細な分析をされているが、戦後についてはこの岸さんの本がカウンター・パートを担って、今後参照されるべきであろう。
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