美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

観察映画「演劇1」

今日、京都シネマでの最終回に間に合った。ゼミの先輩でもある想田和弘さんの最新作。

平田オリザとその劇団を追いかけた二部作の一本目。
平田さんの演劇メソッドは聞いたことはあったが、実際に目の当たりにするのは初めてで(残念ながら、青年団の劇は見たことがないのだ。学生時代、あんなに近くに駒場アゴラ劇場もあったのに!)、最初の30分だけでも、コンマ単位の間合いにこだわるそのあまりの厳しさに戦慄した。平田さんの演出方法は、役になりきるスタニスラフスキー・メソッドを否定しさるところから始まる。要するに、北島マヤに場所が全く与えられない(笑)演劇空間である。
パンフレットでライムスター宇多丸さんが「高度に装われた自然さ」と述べているが、正に自然を不自然なほど装うことが平田演劇・想田映画の共通項でもあり、この映画(想田さんの映画は全部そうだとも言えるが)のライトモチーフになっている。つまり見る側は「これは演技なのか、それともドキュメントなのか」という二分法を維持することが許されない。例えばいわゆるバックステージを撮影していても、バックステージの平田オリザおよび役者たちは、結局は我々の「納得のいく(意外であったり予想通りであったりする)」ペルソナ(あくまで仮面、である)を見せてくれるのである。そしてその「納得のいくこと」自体が、映画を見るものをして、モヤモヤというか、納得がいかない感情を引きずり出す仕組み。そういう意味で高度に「メタ」な読みを自然と要求する映画だったと思う。
あと、印象的だったのが、平田さんにレクチャーを受け、劇を演じる中高生たちの表情。あんな生き生きした表情をさせるのはさすがというか、平田さんの教育者としての能力に、僕などは職業柄嫉妬すら混じる羨望を禁じ得ない。
おそらく、明日から公開される「演劇2」ももちろん見て、以下の想田さんの新刊も読むことになるだろう。

演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか

演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか

追記:僕は演劇の世界に身を置いたことはないが、学生劇団関係の友人が多く、大学3,4年生の時は年に十本くらいは見ていたような気がする(「チケット自動購買機」と自嘲していたくらい。押しに弱かったのよ)。その友人の一人の紹介で、井上ひさしの「こまつ座」で、大道具の搬出入のバイトをしたことはあり、舞台作りやらゲネプロの様子などは懐かしいなあ、と思い見ていた。