美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

検索ワードは大事

最近ネット上に出た森岡正博先生の議論とかそれに対する江口聡先生の意見をチラ見して、ついでに京大人文研の紀要『人文学報』所収の田中雅一先生の論文(「癒しとイヤラシのポルノグラフィー ―代々木忠監督作品をめぐって―」というもの)なども見て、性暴力としての「膣内射精(あんまりこういう用語は使いたくないけど、森岡先生が使っているのでそのまま使う)」という上記の議論と同時に、いわゆるアダルトビデオでそういうネタもあるよなあ(一大ジャンルといってもよかろう)、そういうことに言及している学術研究って、どの程度のものがあるのかな、などと思い「CiNii」で「アダルトビデオ」とか「ポルノ」という検索ワードで調べたら(簡易検索)、雲泥の差。「アダルトビデオ」では21件、「ポルノ」では661件、ついでに「射精」では545件。特に「アダルトビデオ」の方は週刊誌の大したことのない記事ばかりで使い物にならん。うーん。色々組み合わさねば。
この問題をちょっと考えたくなったのは、実は大澤真幸先生の本を今ゼミで読んでいる事とも関係がある(学生諸君には誠に申し訳ないことに、大変難しい。「あれも第三者の審級、これも審級、多分審級、きっと審級」という「愛の水中花」状態の海に放り込まれてみんなおぼれかけている)。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

↑細かいけど、「大澤」が「大沢」になっていて、なかなかはまぞうで出なかったぞ。なんとかせい
ここで大澤先生は、例えばリストカットとか「極度に激しい現実」、「現実の中の現実」へと逃避していると解せる現象が現れていることを説いているが、この本を読んでいて「もしかしたら、アダルトビデオの極端な描写(どういうのを僕がそう見なすかはとりあえず措くとして)は、こういう「現実への逃避」の一例かも」などと思いついたからだ。