美徳の不幸 part 2

Pity is akin to love.

「少年愛」と「ヤオイ」

今日、ミネラルウォーターを飲みながら読んでいたのはこの本。

隠喩としての少年愛―女性の少年愛嗜好という現象

隠喩としての少年愛―女性の少年愛嗜好という現象

感想は、うーん、難しいな。「少年愛」や「ヤオイ(著者は、現在のBLを含む広義の同性愛ファンタジーをこう呼び、森茉莉から24年組の作品を「少年愛」として区別しているようだ)」のメカニズムがすっきり判る評論ではなかった。著者は、SM的なポルノグラフィーとしての側面を強めている現在の「ヤオイ」の隆盛に対しては、批判的な視線を持っている。著者は「攻め×受け」が跋扈する(笑)最近のヤオイを、「同性愛ファンタジーは性に対峙することのできない少女の脆弱さの現れ」という世間の批判に対する「過剰適応」且つ「反作用」と見なしている(この辺はなかなか面白い見方だと思った)。

少年愛ものではどんなに優れた作品を描いても本来のテーマが読み取られることはなく、「客体としての性からの逃避」とか「生々しい性がまったく描かれていない」としか言われなかったからである。当事者がそうした世間の決めつけに「そうではない」ことを示すには、作品に性差別的に捉えられた男女関係のアナロジーとしての支配と隷属の少年愛関係や、できるだけ生々しいセックスシーンを描くしかない。そうして生まれた表現が、すなわちヤオイである。(中略)
つまりヤオイは、その形式(スタイル)において、社会の揶揄と嘲笑に対して直接的に答えたものだった。しかし答えたことによって、当初、女性の少年愛嗜好に含まれていたジェンダーレスの可能性は潰え、むしろ悪しきジェンダーの虜囚となったのである。(pp.256-262)

なお、彼女は分析の道具として、フロイト的な視座、ユング派の分析心理学、深層心理学から色々援用しているのだが(アニマ、アニムスとか、元型論ですね。「男根をもった母」なんてのもあったな。クリステヴァもどこかで使っていたし)、なぜ「少女にとって、少年愛ファンタジー「母」からの脱出のスプリングボードになる」のか(彼女はそう主張している)、その理路がよく僕には飲み込めなかったのだ。これだけ日本において「少年愛嗜好」が女性の間に伏流しているのは、個人的な原因ではなく社会的な理由があるだろう、という考え方には同意するが、なぜ「少年愛」なのか、という必然性がよく読み取れなかったのだ。もう一度考えてみるつもりだけど。
母親との葛藤というテーマを、少年愛という「迂回路」を通らずに、モロに捉えた樹村みのりなんかは、この著者にはどのように評価されるのだろうか、ちょっと気になる(樹村みのりも、世代的には「24年組」である)。

あと、この本は半分以上が「森茉莉」論ですね(僕は噂に聞いていた森茉莉の「生活無能者振り」を改めてこの本で教えてもらった)。昨今のBLについての考察を探していた僕にとってはちょっと肩すかしを食らった感じだが、「前史」としての森茉莉を押さえられた、ということでよしとするか。